昭和十五年の荒川区の宗教世界
-「教会講社」資料にみる
一、はじめに
東京都公文書館には、東京府文書・東京市文書・府内刊行物をはじめ、各種資料が保管されている。本稿はそのような資料の中で、昭和十五年に作成された「教会講社」資料における、荒川区の宗教結社に関する資料(以下、本資料と略す)を扱う(1)。荒川区教育委員会が、『荒川区教育史』(資料編・平成五年、通史編・平成八年)を編纂する際に、荒川区に関連する資料を収集したものの一部が本資料である。その編纂の後、我々荒川区民俗調査団が調査に利用するために参照させていただいた。とくに「信仰生活」の担当者たちは、勉強会を数度にわたって開き、調査前に本資料の特徴などを確かめ、一方では、実際の調査準備として利用した。
本資料は、民俗調査に利用する以外にも貴重な知見を我々に与えてくれる。磯岡氏は天理教の七十五布教所に関し事例研究を行っている。筆者は、この資料全体の特性を検討した後、簡単な統計的分析、所在地に基づいた地図作成という二つの作業によって、当時の荒川地区の宗教世界を描こうと試みた。
二、資料の特徴と背景
本資料が作成された昭和十五年は、近代日本初めての統一的宗教法である「宗教団体法」(以下、団体法と略す)が施行された年である。本資料も団体法の施行にともなって作成されたと考えられるため、まず、法制度の面から、この時代を概観しておきたい(2)。
明治以降、第二次大戦前までは、宗教的側面から考えると国家神道体制の時代と言えるだろう。
具体的見ると、まず明治初期の段階は、神仏道のみが行政の対象とされていた。つまり、キリスト教やいわゆる新宗教は宗教と見なされていなかったのである。
しかし、明治二十二年に制定された大日本帝国憲法第二十八条において、信教の自由が保障された。さらに、諸外国との条約改正を目指した明治政府は、明治三十二年八月四日に施行された内務省令第四十一号によってキリスト教を初めて公認した。だが一方では、同年、国公立学校における特定宗教の宣布・教授を禁じてもいる。
このように、宗教に関する布告・布達・訓令などは別々に規定され、諸制度が順次整備されていくが、その状態ではいかにも煩雑である。したがって、統一的体系的な法律が求められるようになったのである。
そこで政府は、明治三十二年(第一次宗教法案、廃案)以降、昭和二年(第二次宗教法案、審議未了)、昭和四年(宗教団体法案、審議未了)と三度、宗教法案が上程したが、いずれも成立しなかった(3)。
そしてようやく昭和十四年四月八日に団体法が成立し、翌年四月一日に施行されたのである。この法律は、宗教法規の整備・統一・拡充、宗教団体の保護、監督強化が重視されており、取締の強化という点が運用の面で見られた(4)。
また団体法は、宗教団体の地位及びこれに対する保護監督の関係を明確にし、その健全な発達並びに教化機能の増進を図ることなどが目的となっている。その対象としては、神道教派、仏教宗派、キリスト教その他の教団、及び寺院・教会を宗教団体に認定している。これらの教派、宗派及び教団並びに教会は法人とすることができ、または、寺院は法人とすると規定された(5)。
だが一方の、非公認だったいわゆる類似宗教については、この法律でも法人格は与えられなかった。ただし、宗教結社とはなり得るものとされた。これに対し、これまで類似宗教とされ、行政の対象となっていなかった新宗教の諸団体は、これを受け入れ、積極的に「宗教結社」としての登録を申請したようである。
本資料、つまり「教会講社」資料とは、講社や布教所など「宗教結社」に関する資料である。団体法で取り扱われる「宗教団体」とは認められなかった団体に関する資料なのである。逆に言えば、当時「宗教団体」として扱われた寺社仏閣などはこの資料では把握し得ないともいえる。本報告書の第一部で掲載されている宗教法人の多くは、すでに団体法でも「宗教団体」として扱われているような寺社仏閣が多かった。
以上述べたとおり、本資料は「宗教結社」として活動していた諸団体の基礎的資料であることが理解されたと思う。
換言すれば、昭和十五年当時の有名な寺社仏閣の資料というのではなく、逆に、町の片隅で小さな建物を拠点に活動していた、庶民の信仰の拠り所になっていたさまざまな団体の資料だということである。
したがって、宗教団体と認定されなかったこれら「宗教結社」に関して、その全体像や概要を少しでも明らかすることが本稿の目的である。第一部で扱い得なかったような対象をここで扱えるということが、大変有意義だと思われるのである。
三、資料の分析
(一)宗派
本資料の宗教結社を、神道・仏教・基督教・その他に分けてみることにする。すると、天理教を除いた合計百六十一の宗教結社は、表1のように分類された(6)。
これを見ると、神道が一番多く、合計七十五となっている。内訳は、多い順に、御嶽教二十二、神道天善教十、扶桑教八、神道修成派八、神道日正教六、神道実行教五、神習教四、神理教三、神道大教三、そして、その他が六である。
仏教は合計七十三である。内訳は、真言宗三十(表にしていないが、これを細分すると、高野山大師教会八、醍醐派七、智山派六、豊山派三、その他六となる)、日蓮宗二十一、浄土真宗十一、天台宗五、本門法華宗が二、その他が四である。
基督教は五であり、日本基督教会、日本聖公会、メソジスト教会などすべて異なる教派であった。
その他として、心霊界教会五、生長の家二、解脱会一を分類しておきく。
全体を概観すると、いわゆる教派神道と呼ばれる各派が概ね存在していること、仏教のなかでは曹洞宗や浄土宗などが見られず、逆に真言宗・日蓮宗などが多いことが特徴と言えるだろう。
(二)形式
団体法の第二十三条には「宗教団体二非ズシテ宗教ノ教義ノ宣布及儀式ノ執行ヲ為ス結社(以下宗教結社ト称ス)ヲ組織シタルトキハ代表者ニ於テ規則ヲ定メ十四日内ニ地方長官ニ届出ヅルコトヲ要ス届出事項ニ変更ヲ生ジタルトキ亦同ジ」と記述されている(以下条文は全て新字体で表記)。宗教結社の規則としては、次の事項が「記載スベシ」こととされている。
一 名称
二 事務所ノ所在地
三 教義、儀式及行事ニ関スル事項
四 奉斎主神、安置仏等ノ称号
五 組織ニ関スル事項
六 財産管理其ノ他ノ財務ニ関スル事項
七 代表者及布教者ノ資格及選定方法
また、同二十四条には「宗教結社ノ代表者ハ其ノ結社ニ属スル布教者ノ氏名及住所ヲ遅滞ナク地方長官ニ届出ヅルコトヲ要ス其ノ届出事項ニ変更ヲ生ジタルトキ亦同ジ」とある。
さらに同五十八条には、届け出をする結社は「規則ノ外左ノ事項ヲ記載シタル書類ヲ添附シ之ヲ地方長官に提出スベシ」とある。
一 教典、其ノ行儀等
二 代表者ノ履歴
三 布教ノ方法
四 布教者ノ数及信徒ノ概数
五 資産ノ状況
六 布教所ノ位置並ニ建物ノ名称、種類、用途、構造、坪数及敷地坪数(図面添附)
七 他ニ関係宗教結社アルトキハ其ノ名称、事務所ノ所在地及代表者ノ氏名
というのがその内容である。
本資料では、まさに上記に準拠した共通の形式であった。つまり、結社届・結社規則・教義儀式行事・教典その他・布教所の位置・代表者の履歴書・家屋使用・信徒名簿・見取り図、などがほとんどの結社に見られたのである(7)。
さらに幾つかの教派・宗派では、それぞれに形式が定められており、その「雛形」と見られるものには、布教所名や代表者名、所在地などが空欄となっていた。それ以外はすでに印刷されていて、各結社ごとにその空欄を埋めていく形式になっているものが多かった。
そこで本稿では、天理教に次いで多かった宗教結社「御嶽教」の各教会の資料を概観してみることにする。
すると、御嶽教の二十二結社の形式は、以下の通りであった。
@宗教結社届、A宗教結社規則、B教義・儀式・行事、C教典其の行儀、D布教所の位置その他、E履歴書・身分証明願、F家屋使用承諾書、G信徒名簿、H建物見取図。
続いて、幾つかの項目についてもう少し詳しく見ていこう。
@宗教結社届は以下の書式であった。
宗教結社届
御嶽教所属教師トシテ教義ノ宣布儀式ノ執行ニ従事シ居候処其ノ結集ニ関シテハ末ダ許可ヲ受ケズ依テ宗教団体法施行ニ際シ同法第二十三条同法施行規則第五十八条ニ準ジ規則並ニ添附書類相添ヘ及御届候也
住所 ××
昭和十五年 ×月×日 代表氏名 ×× 捺印
東京府知事 岡田周造殿
A宗教結社規則は、以下の書式となっていた。
宗教結社規則 (御嶽教所属)
一 名称
第一條 本結社ハ御嶽教○○ト称ス
二 事務所
第二條 本結社ノ事務所ヲ○○ニ置ク
三 教義儀式及行事
第三條 本結社ノ教義儀式及行事ハ総テ御嶽教規ニ定メアル教典並ニ祭事規範行事ニ據リ施行スルモノトス
四 奉齋主神
第四條 本結社ノ奉齋主神ハ国常立尊、大巳尊命、少彦名命ヲ奉祀シ之ヲ御嶽大神ト称シ奉ル
五 組織
第五條 本結社ハ御嶽教所属教師及信徒ヲ以テ組織シ而シテ教会組織ニ漸進スルモノトス
六 財産管理及財務
第六條 本結社ニ属スル財産ノ管理ハ代表者ヲ主管シ財務ハ教師及信徒ヨリ毎月一名金五銭以上五拾銭以内ヲ醵出セシメ之ヲ維持経費ニ充ツルモノトス
七 代表及布教者資格選定
第七條 本結社ノ代表者ハ届出人トス布教者ハ御嶽教所属ノ教師ニ限ルコトトシ代表者之ヲ選定スルモノトス
八 附則
第八條 本規則ハ昭和拾五年四月壹日ヨリ実施シ教会出願許可ヲ受クルニ至リタルトキハ無効トス
要項 事由
教典其ノ衍義 昭和十三年四月宣布ノ御嶽教教典ニ據ル
代表者ノ履歴 別紙ノ通リ
布教ノ方法 事務所ニ参集又ハ外来者ニ対シ布教伝道ス
或ハ信徒ノ需ニ応ジ住宅ヘ出張シテ布教ス
布教者ノ数及 布教者ノ数 ○○人(自分又ハ選定人)
信徒ノ概数 信徒ノ概数 ○○人
資産ノ状況 現在ノ住居ハ借家(自分所有)ニシテ生計上
支障ヲ来タザル状態ナリ
布教ノ位置其他 位置、建物、種類、用途、構造、坪数、及敷地
坪数ハ別紙ノ通リニテ図面添付ス
他ニ関係宗教結 ナシ
社ノ有無
右之通リ相違無之候也
昭和十五年 ××月 ××日 住所 ××
結社名 ××
代表者名 ×× 捺印
B教義・儀式・行事、C教典其の行儀はすべての部分が印刷済みである。
Bの「教義の大要」「儀式」などが簡潔に書かれている。なお、「行事」は「鎮魂其の他信仰的行事は 大己貴命の伝流、を本とし迅速目命や太玉命の伝流をも加味して祈祷、禁忌神古等は 総て信徒の要請に応じ時之か行事をなす」となっている。
Cは次の通りである。
「本教は 奉斎主神たる国常立尊、大己貴命、少彦名命の伝流に則り、古事記を基本として作製せし 御嶽教教典に基き惟神の大道たる八紘一宇の建国の大理想を説き報恩感謝の念を培養し 祖先を敬い忠孝徳義の道を講じ苦修練行偏に心身の健全を期し悪を戒め諸々の衆生を教化善道に導き神人合一、の信念に因りて 滅私奉公、国運降昌、民福増進を祈願す」
D布教所の位置その他や、H建物見取図には平面図、正面図、側面図などが書かれてある。平面図を見ると、一戸建ての二階を含めるとかなり広いものがある。
E履歴書・身分証明願は印刷されておらず、ある程度にそれぞれの結社の代表者ごとに異なっている。またその内容に関しては後述する。
F家屋使用承諾書は、以下の通りである。
一 家屋 ○○階 建 ○○葺 ○○戸
所在 東京市荒川区 ○○町 ○○丁目 ○○番地
右ノ家屋結社御嶽教○○講ニ使用スルヲ承諾仕リ候也
昭和 ××年 ××月 ××日
東京市 ××区 ××
家主 ×× 捺印
G信徒名簿に関しては後述する。
(三)代表者
先述したが、本資料において各宗教結社の代表者に関しては、学歴その他の履歴などが詳細に書かれている。そこで、どのような人たちが宗教結社の代表者となったのか、その全体像をつかむために、性別と年齢、学歴の三点に注目した。
まず性別を宗教別にクロス集計させた表2を見る。性別では、代表者全体の約七割が男性であった。ただし神道では四割以上が女性となっている。他は平均以上で男性の割合が大きい。表には示していないが、神道のなかでも、扶桑教(八教会中六名)・神道日正教(六教会中四名)・神道修成派(五教会中三名)では女性代表者の方が多く、天善教では半数(十教会中五名)が女性であった。これらが神道全体の女性の割合を大きくしているのである。
一方、基督教では全員が男性であった。また、仏教でも八割近くが男性であり、それは宗派ごとにみてもあまり変わらない。
代表者に関しては、神道に分類される宗教結社に女性が多いことが明らかになった。
表3は昭和十五年四月三十日現在の年齢を、十歳ごとの年代別に分類し、宗教別にクロス集計させたものである。
全体を見ると五十歳代が三十五%でもっとも多く、次に多い四十歳代(二十三%)と合算すると過半を占める。この年代に代表者が集中していることが分かる。その一方で、二十歳代や七十歳以上も合算すると一割程度いることが分かる。なお、最年少は二十二歳、最高齢は九十七歳であった。
また、宗教別で見ると、基督教とその他では実数が少ないものの、そのすべての結社で代表者は五十歳代以下だったのに対し、神道と仏教では六十歳以上が二割以上を占めていたことも分かった。
続いて学歴を見よう。ここでは学歴を「尋常小学校」、「高等小学校」「旧制中学校・高等女学校」「旧制大学」の四つに区分した(8)。これを表4にしたがって全体を見ると、尋常小学校が四十五%、高等小学校が四十%と、この二つに集中していた。必ずしも学歴が高い者が代表者になっているわけではないことが分かる。さらに、中学校が十三%、大学が二%と大変少ない。
学歴不明は実数で二七あった。それは、本資料の「学歴」に、僧歴や得度した年月日など、宗教上の経歴(その教団・教派での経歴)だけを記す場合があったからである。もちろん、学歴と宗教上の経歴を両方記載しているものも、後で述べる御嶽教のようになくはない。
宗教別にクロス集計をとってみると、神道では尋常小学校卒が平均より十ポイント近く高いことと、実数は少ないものの、基督教の指導者は、皆、高等小学校以上であることなどが判明した。
さて、御嶽教の場合は、代表者の履歴書が「学業」と「宗教」に分かれている。前者の内容としては、一般の学校での卒業や入学などの経歴が記載されていた。また、同時に、「○○教会に於いて御嶽教教師○○氏(先生)に師事し、御嶽教の教義、教典及神事祭式作法を習得(修得)す」などが加えられているものもあった。
後者は「僧属」としての位置づけが示されている。「訓導・権少講義・少講義・権中講義・中講義・権大講義・大講義・准教正」などと順次昇級されていく様子も記述されている。「御嶽教管長より、大講義に補せられる、教師権講義に補する」などとの記載もある。
それ以外の宗教・宗派を見てみると、例えば「真言宗醍醐派」は、学業欄以外に、得度・度牒(管長より得度辞令を受けた年月日)・先達・教師試補・(檀)津師という僧階階級の認可が記入できるようになっている。
(四)信徒
それぞれの結社は、信徒数を自らが申告した数を本資料に記載している。この自己申告の数値は、約百とか約五十などの概数が書かれてある結社もあった。さらに、宗教団体一般に言えることととして、入会などの数はしっかりカウントしても、だんだん来なくなるような信徒についてはすぐに退会したと数えない場合があるので、「信徒数」の数値が、必ずしもその宗教団体の教勢を正確に示したものとは言えないことは予め了解しておこう。そのような留保をした上で、しかし、この数値もある程度の目安にはなるだろうという期待のもとに、人数を見ておきたいのである(9)。
表5は信徒数を「九人以下」「十人台」などの八つに区分して、宗教別にクロス集計をとったものである。
全体では三十人台以下が過半を占めており、必ずしも大きな結社は多くないことが判明した。九人以下も全体の一割はいるのであった。その一方で、百人以上という大きな結社も仏教を中心に十五%もあったことは記しておくべきだろう。
宗教別に確認しておくと、まず、神道は二十名未満の結社が半数近くあった。仏教と比較してかなり小規模な結社であることが理解されよう。一方の仏教は、六十名以上が過半となっている。さらに百名以上が三割近くも占めていた。
また、基督教とその他はその中間と言える。
信徒名簿には、「住所・氏名・生年月日」の他に「職業」を書く欄が設けられているものが多い。それを見ると、さまざまな職業の人々がさまざまな宗派の結社において信徒となっているのが理解されよう。
では、御嶽教を見てみよう。そこで信徒名簿が整っている十八結社を扱うことにする。この十八結社においては、信徒数の平均は二十一名であった。
職業の表記の仕方は、結社ごとに異なっているので、分かりうる範囲で言及すると、まず、「菓子商・青物商・パン屋」などと書かれた自営業がもっとも多かった。平均すると八名となり、ほとんどの結社に自営業者はいた。次に多かったのは「鋼鉄加工・鋲製造・鋳造」などと書かれた製造業である。平均で三名だった。「勤め人・会社員・勤務」などと書かれた勤務者は平均二名いた。また、無職も平均一名いた。
その他さまざまな職業があった。農業や漁業、地主や家主という者もあった。区会議員・市会議員・海軍省・葬儀社・市電従業員・教員などは、十八結社全体でそれぞれ一名から二名いた。信徒の四割が芸妓で、待合や仕立などそれに関連すると思われる職業を合算すると過半となる結社もあった。人数が十名前後くらいの結社では、例えば屑物商や貨物商が多いなど、同じ職業・関連業種の者が多いところもあった。多種多様な人々がそれぞれの結社の信徒になっている一方、とくに小規模で目立つこととして、関連した職業の者で構成されているということは指摘してよいだろう。
四、宗教地図
宗教結社数を、地区別にまとめると以下の通りになる(10)。
尾久三十八、町屋二十四、南千住二十、日暮里三十五、三河島四十四、合計百六十一。個別にどの結社がどこに位置していたのかということは、別掲の地図を参照されたい(その際、昭和十六年に作成された地図を用いた)。
表6は、地区別・宗派別にまとめたものである。これを見ると、地区別にある程度の偏りが見られた。なかでも仏教においては地域差が大きかった。
表には記していないが(それぞれの地図を参照のこと)、神道各派を見ると、御嶽教が尾久・南千住・日暮里に多い一方で、他地区にも幾つかは存在しており、荒川区全体に教会があることが分かった。また、神道日正教は尾久に集中し、神習教は南千住のみにあることなどの偏りも確認できた。
仏教では、真言宗と日蓮宗は各地区に幾つかずつあるが、真言宗は南千住に少なく、逆に日蓮宗は南千住に集中していた。さらに、日暮里地区は他と比べて、全体的に仏教結社の数が多かった。これは寺院自体が他の教区に比べると日暮里地区に多いということにも起因するだろう。
表7は地区別のチームの代表者性別をまとめたものである。宗教別に概観すると、三河島地区に女性の代表者が多いことや、逆に、町屋地区では男性代表者がやや多いことが判明した。
五、おわりに
昭和十五年時点での荒川区の宗教世界の一部を概観してきた。当然、あくまでも荒川区の資料であるという地域差の問題も考慮せねばならないし、同じ荒川区であっても「宗教団体」と認められていた寺社仏閣などとの比較検討も必要であろう。
本稿では、紙幅の制限も考慮した上で、得られた知見と今後の研究の見通しを示して、結びとしたい。
ここで得られた知見は次の通りである。
神道の宗教結社は、信徒数の少ない小さな規模での結社が多かった。一方で、仏教には宗派の区別無く信徒数の大きな結社が多かった。この点については、荒川区内の各地区ごとに、顕著な差は見られなかった。
また、宗教結社の代表者は神道において女性も少なからずいたが、全体的には男性が多かったと言える。さらに、神道は他の宗教と比べるとやや学歴の低い代表者が多かったが、これは性別と関連すると思われる。つまり、第二次大戦以前の日本においての男女差ということである。
その結社に所属している信徒たちも、自営を中心にさまざまな職業を持つ者たちがいることが分かった。
さまざまな宗教結社は、広く多くの人々によって支えられ存続していたのであった。
本資料は、今からまだ六十年ほど前のものである。したがって、民俗調査の手法によって、ある教会講社が、その後どういう変遷を辿ったのかを一つ一つ追跡していくことも可能だろう。本報告書の第一部で筆者が分担した、宗教団体に関する調査を進めていったときに、後継者難などで、結局、現在では継続できなかった宗教団体もあった。
今後は、本資料を生かしながら、かつての荒川区で展開された信仰生活の在り方を再検討し、さらに一方では、現代の荒川区の宗教状況をつかむことにより、さらなる比較検討を進めていくことを、筆者自身の課題として提示したい。
ただし、現在の法制度では、かつて宗教団体と認められていたもののみが行政側に把握されているに過ぎないということを忘れてはなるまい(11)。
昭和十五年当時のように、宗教団体とは認められていなくとも、その信者たちからは宗教団体と見なされているような団体は、現代でも少なくないと思われる(12)。だが、それらはなかなか把握仕切れないことが予想に難くないのである。
この資料は、そういった意味で、昭和十年代の信仰生活を共時的に切り取って考えるために有益であり、その特性を生かした研究について、上記で述べたことを含めて考え、今後も継続して考察していきたい。
註
(1)本資料には昭和十六年に作成された事例も四教会あった。だが、年度が異なることと数が少ないことから、本稿では昭和十五年作成の資料のみを扱っている。
(2)『宗教関係法規集』(文部省宗教局、昭和十七年)は、宗教団体法に関連する法規が多数収録されている。
(3)宗教法に関する多くの論考を踏まえた上で、明治三十二年の第一次宗教法案に関する考察を小島伸之が発表しているので参照されたい(小島伸之「明治三十二年宗教法案論の再検討」『宗教と社会』第四号、平成十年)。
(4)この法律の第十六条では、君民たる義務として秩序を妨げないということで罰則が問題とされた。昭和十五年は準戦時体制にあり、政府への批判に対しては「制限・停止・許可取消」などの処置がとられた。
(5)明治政府以来、神社はあくまで国家を宗祀するものとされた。その結果、他の宗教と同一視すべきでないとされていた。
(6)この「神道」の多くは教派神道である。教派神道とは周知の通り 「神道本局・黒住教・神道修成派・出雲大社教・扶桑教・実行教・神習教・大成教・御嶽教・神理教・禊教・金光教・天理教」のことである。本資料では、黒住教・出雲大社教・禊教以外の十派の結社を見ることができた。なお、本稿では天理教は省いているので、詳細は磯岡氏の考察を参照のこと。
(7)本資料のなかには、信徒名簿が欠如しているものが幾つかあった。また、書類の一部が欠如している結社もあった。これは、ある教派全体で一部が欠如しているのではでなく、あくまでのそれぞれの結社ごとの問題である。筆者は、東京都公文書館において保管されている現物にもあたったのだが、結局見つからなかった。 つまり、収集の段階ですでに散逸してしまっている可能性もあるということだろう。
(8)本資料の宗教結社の代表者の中には、安政や慶応生まれの者もいる。彼らの数名は、明治六年の学制が整う以前に成人している。したがって、それらの資料では「寺子屋」などが学歴に記載されている。これは「尋常小学校」と同等と見なすことも可能かもしれないが、今回は「その他」に分類している。
(9)本稿では、信徒数として記載された数値と信徒名簿上の信徒数が不一致だった場合は、その少ない方をその結社の信徒数とした。例えば、信徒数として約百名、信徒名簿には八十八名が記載されていた場合は、八十八名を採用した。また、信徒名簿がなかったものもあるので、その場合は記載された信徒数を採用した。
(10)本稿で示す地区は、本民俗調査の調査順に表記している。また、地図を作成する際に、磯岡哲也「信仰生活」(荒川区民俗調査団編 『尾久の民俗』東京都荒川区教育委員会、平成三年、百五十六頁)の地図を参照したことは申し添えておく。
(11)第二次大戦後、昭和二十年十二月十五日には、国家神道や神社神道の国家からの分離をうながした神道指令が出され、同月二十八日には宗教法人令が公布・施行された。さらに、二十六年四月三日に宗教法人法が公布・施行された。そして記憶に新しいところでは、宗教法人法が改正され、平成七年十二月十五日に公布、 八年九月十五日に施行された。
第二次大戦後の宗教法の動向に関しては、当然、本稿の対象外である。だが、宗教団体と法という問題という観点からは当然、幾分か関連するのである。宗教法人法改定にともない、さまざまな単行本が出版されたが、国際宗教研究所編『宗教法人法はどこが問題か』(弘文堂、平成八年)などが、とりあえずの手がかりとなるだろう。
(12)逆に、関心がある人々にとっては「宗教」と見なされていない現象も、研究者の側で「宗教」あるいは「宗教的な現象」と見なされているものがあることは、筆者も承知している。