短大生による社会学の実践
−写真観察法レポートの試み−

1 はじめに
 大学の授業に関する議論が近年盛んである。
 大学・短大の進学率が40%に近づいた1970年代以降、大学教育実践に関わる著作が次々に刊行され、いわゆる大学の大衆化に関連した議論がなされた(1)。その後も、高等教育機関への進学者数は増加した。受験を突破した大学生たちに対しては、「与えられた知識をそのまま受容することには習熟しているが、自分で問題を設定し、知識・概念・法則などを探究し、創造していく」力が失われていったという批判も広く語られている[浅野 1994:142]。
 1990年代に入ると、進学率は50%に接近し、同時に第二次ベビーブーム後の世代の人口が激減することが確実という状況で、大学は自らを厳しく見つめ直さねばならなくなった。臨時教育審議会(1984-87)の答申で述べられた大学の評価が大学改革の課題となり、自己評価・自己点検システムが議論された(2)。また、大学設置基準の改正(1991)にともない、多くの大学でカリキュラムの編成替えが実施され、シラバスやTA制度が導入された(3)。そして、海外の実態報告を含め、多くの関連書が刊行された(4)。さらに、大学の授業に関する具体的な実践方法も多数、提示されている(5)。
 本稿で筆者は、自らの「社会学」講義自体を対象として、受講生のレポートを検討していく。その際、「社会学的想像力」についても言及したい。
 筆者は「社会学」を大学・短大で講じるようになって4年目である。その間、半期ごとの講義において、さまざまな試みを行ってきた。まだ試行錯誤の段階かもしれないが、その試みの一つである「写真観察法」を、受講生のレポートをもとにして、本稿で議論しておきたい。本稿執筆の直接的な動機は、受講生たちによる数多くの優秀なレポートの存在である。筆者の拙い講義に対し、受講生たちは、毎回さまざまな問題に格闘して、リアクションペーパー(後述。以下、RPと略記)を提出する。彼女たちは、レポートにも時間をかけて、それぞれ自分なりの「社会学」を実践した。これに真っ正面から応えるべく試みられたのがこの論考ということになる。

2 社会学講義
 2-1 教養科目としての位置づけ
 筆者は大学生時代、社会学科に在籍していた。その4年間で学問の基礎が十分身に付いたかというと心許ない。どちらかというと、その後の大学院での指導教授による指導や研究会仲間との議論、学会発表の準備や質疑応答などを通じて、さらに調査研究を進める中で、さまざまな先行研究を学びながら、学問の基礎体力を付けていったと思うのである。
 現在筆者が担当しているのは、専門科目ではなく、教養科目の「社会学」である。つまり、決して受講生全員を社会学者として養成するための講義ではない。ほとんどの受講生にとっては最初で最後の「社会学」であり、半期15回程度の講義である。受講生の状況を踏まえた上で、講義内容を選定せねばならない。当然のことながら、テキストも、その点を十分考慮しなければならない。
 筆者は、漫然と社会学の基礎概念を並べ連ねたり、社会学史として人物史や学説史を丹念に追ったり、社会学理論をそのまま紹介するだけでは、半期の教養科目「社会学」の講義としては適切でないのではないかと考えた。実際、筆者が事前に講義の下準備として学んだ1990年代に出版されたテキストは、それぞれヴァラエティに富んだ内容だった(6)。 それでは、そもそも教養科目として「社会学」を学ぶとはどういうことになるのだろうか。
 この問いかけに対して筆者は、「社会学的想像力」を高めることだと応えたい[ミルズ 1995]。あまりも有名なミルズのこの著書は、当時のアメリカ社会学への批判が中心であるが、社会学的視座の基本を唱えたものだと言える。さらに、全体社会とその構成要素両方をつなぎ合わせて見ていくという方向性は、社会学者でない者にも必要なことだと思われる(7)。
 もちろん、社会学者はそれぞれさまざまな表現を用いて「社会学を学ぶ」ことを語るのだろう。筆者は短大教養科目の「社会学」を講義する際、受講生に少しでも「社会学的想像力」を身につけてもらう、もしくは身につける術の一つを学んでもらうことを大きな目標にしている。

 2-2 講義概要
 本稿で扱う主な資料は、立教女学院短期大学(以下、本学)における2000年前期「社会学A」の課題として提出されたレポートである。
 本学では、教養科目はA〜F群の6つに分けられている。Fの総合講座を除く5つの群はそれぞれ2単位ずつ取得することが、学生たちに必修とされている。社会学は、心理学や経済学、社会思想史などとともに、B群の「人間と社会」に分類されている。そして、他の科目と同様に、前期2単位、後期2単位である。授業科目名はそれぞれ「社会学A」「社会学B」となっている。基本的にはAを履修しなくてもBは履修できることになっているため、授業内容はそれぞれ独立させることが望ましい。もちろん、AB両方履修する者も多い。そこで筆者は、前期と後期とでは内容を大きく分けている(8)。2000年度の事業時間は木曜日の4限、すなわち14時40分〜16時10分に配置されている。
 「社会学A」すなわち、前期の講義は、サブテーマを「家族と調査の社会学」とした。講義スケジュールは、まず社会学とは何かということやその全体像、守備範囲などを述べ、続いて「家族の社会学」として、家族の変化と定義・家族の形態と機能、そして現代的課題などを述べた。その際、テキストを必携し、必要に応じて用いた[石川 1997]。最後に、「調査の社会学」として、社会調査の初歩・写真観察法・心理学的調査などをについて述べた。すべての講義にはB5判のレジュメを配布し、そのレジュメに沿って講義を展開している。レジュメに書ききれないことなどは、板書も適宜行っている。トピックによっては、5〜10分程度ビデオを用いることもある。
 評価の基準は、後述するレポートが8割、出欠点が2割とした。その出欠点は単に出席カードを集めるというものではなく、RPを行った(9)。
 RPとは、授業の最初にB6判のミニレポート用紙を配布し、それに対して、授業中に出題される2、3問に答えたり、授業に関連する質問や意見を書いて、授業が終わった後に提出するという課題である。これは筆者が講師として勤めている大学・短大のほとんどの講義で実施している方法である。後期の「社会学B」を履修している者のうち、前期の「社会学A」履修者に対しては、前期分のRPにそれぞれコメントを付した上で返却している。また、「社会学B」ではB4判のレジュメを配布し、左半分はRPの一部を紹介し、右半分は講義内容のレジュメとしている。

3 写真観察法
 続いて、筆者が受講生に課したレポートの背景を確認しておこう。
 最初にこの方法の提唱者について述べたい。「集合的写真観察法」という語を提唱したのは、日本大学文理学部後藤範章助教授(都市社会学・地域社会学)である。
 漁山村から都市までさまざまな調査経験を持つ後藤は、それを踏まえて都市社会学における調査方法論に関する議論を深めてきた[後藤 1994;1995他]。その彼が、「社会調査」という教育の場で生み出した方法が、この「集合的写真観察法」である。以下、彼の講義・ゼミに関してまとめよう(10)。
 1994年から日大と法政大、立正大で「地域社会学」という講義を担当している後藤は、毎年「写真で語る:『東京の社会学』」というテーマの課題を出している。これが、写真観察法の課題なのである。
 課題レポートは次のように説明される。
 「今日の東京(より一般化して言えば現代都市・現代社会まで広がり得る)や東京人(都会人・現代人)を象徴的に表すと考えられる場面を写真におさめ、適切なテーマ(タイトル)を掲げるとともに、社会学的な言説で300字から400字程度で解説を加える」ことが、そのレポートの課題である。すなわち、B5判の用紙一枚に写真一枚を貼り、その下にテーマと解説を書くという形式のレポートである。これは7月が締切とされている。
さらに後藤は、提出されたレポートをピックアップして、自らの「社会学応用演習」受講者、すなわち、3・4年生のゼミ生たちと、9月中旬にゼミ合宿を行っている。その際、その多数の作品の中から30点ほどを厳選する。そして、原作者の意図にとらわれずに自由に発想して、タイトルや解説文を作り直す。それを、11月上旬の学園祭(桜麗祭)で展示するのである。
 その対外的な評価は、展示を始めた94年以降、96年度まで3回連続で大賞を受賞している企画だということでも示されている。99年までの6年間、毎年3日間で800〜1000名程度の来場者があったという。2000年3月より1年間、後藤は海外研究を行ったため、筆者が「社会学応用演習」の一つを担当した。そしてその演習参加者(いわゆる後藤ゼミ4年生)たちが中心となって、2000年11月には6年間の回顧展を行った。
 学園祭展示のみならず、後藤ゼミでは「『東京人』観察学会」というサイト(http://www.chs.nihon-u.ac.jp/soc_dpt/ngotoh/tokyo.html)を構築し、94年以降の各年度の優秀作品(1年につき30点前後、99年までで185点)を掲載している。その掲示板の書き込みを見ると、多くの学外者も関心を寄せていることが分かる。
 概要は以上の通りであるが、後藤の狙いはどのようなものなのだろうか。彼自身の論考を辿りながら、ポイントを押さえておきたい。
 写真を撮影し、それに社会学的分析を試みるという調査研究は、後藤によれば、そもそも、「社会のリアリティをどのように実証プロセスの中へ組み込み再構成していくのか」という課題に応えるべく始めたプロジェクト」である[後藤 2000:25]。
 後藤は、「“写真で語る:「東京の社会学」”は」、「学部学生を対象とした『社会学の教育・実習プログラム』として構想し、開発・実践したものである」と述べている[後藤 2000:25]。さまざまな大学の社会調査実習で多く実践されている「調査票調査」が、社会調査教育において最も重要であることは後藤も承知している。だが、「文字どおり動詞型の『社会学する』ことに学生たちが内発的・積極的に取り組める新しい方法の開発・実践が急務である」との思いから、「学生一人びとりが自らの生活世界や身体を介して社会的リアリティに迫り、なおかつ社会学の面白さや奥深さを“体感”できるような『実習』」を構想して実施したのだと言う[後藤 2000:26]。そして、「『東京』あるいは『東京人』の特徴が表されていると判断した場面を写真に写し取る」以上、その「<まなざし>の奥には、その学生自身の『東京』認識/現実認識が隠されて」おり、「なぜその場面を写真に撮ったのか」「自らのとの<対話>を通して解説文をまとめあげる」ことが要求されているのである[後藤 2000:27]。
 後藤の場合は、受講生たちのレポートはもとより、その後のゼミにおける議論がより重要になる。つまり、一つの作品をめぐる、ゼミ生たちの討論である。彼自身の言葉によれば、「集団的・集合的に解釈して作品化するプロセスで、解釈者たちの相互作用と認識の深まりに応じてリアリティに対する感応力と想像力が質的に転換して、それまで捉えきれていなかった諸事象の背後に隠れて見えにくい社会のプロセスや構造の可視化と可知化を促す」ということである[後藤 2000:29]。
 後藤ゼミ6年間の試みのなかで、3年目が終わるときに方法論上の質的転換があった。それは「いつどこで撮った写真か」という点に注意を払わずに、自らの「既知の社会学概念」をどうのように当てはめるかにとどまっていたことを反省したときである[後藤2000:30]。その後、「『場面の再現性』と『関係者の主観的意味の理解』が強く意識されるように」なって、「該当する事象に関係性を有する人々にインタビューし、その事象にどのような思いや意味が込められているのかを必ず把握するようになった」のだという[後藤 2000:31]。その後、この方法がより深化した形で続けられた。
 学園祭の展示には、前年度の来場者コメントも掲示されている(10人〜30人程度)。回顧展の準備としてゼミでは、これまでの見学者たちのコメントを検討して、そのうち厳選した30点を展示した。これらのコメントは、「この展示に感動した」、「一枚の写真に対して自分と違う見方をしている」、「社会学が何となく分かった」などの肯定的なものばかりではなく、「写真対文章」として見なして文章の充実を求めたり、ステレオタイプに陥っているものがあるなどの厳しいコメントを寄せたりするものもあった(11)。

4 レポート
 このような背景を持つ「写真観察法」だが、後藤以外の報告はほとんど聞かない。筆者自身は1998年以降、この方法によるレポートを受講生に課している。以下では、本学の2000年度「社会学A」受講者のレポートから、具体的な事例に基づいて考察を進めることにする。
 まず、筆者によってどのような説明が、そしてレポートの目的と評価がどのように提示されているのかを確認しよう。次に165点すべてのレポートを概観し、いつ・どこで・どのようなテーマで写真が撮られたのかを述べていく。その上で、5点のレポートを取りあげ、作者のコメントを合わせて記述する。さらに、「社会学B」受講者たちによるコメントを加え、これらの写真を通じて、受講生が何を「現代都市」だと見なしているのかに言及していく。

 4-1 事前の説明
 筆者は、基本的には後藤の方法を踏襲している。ただし、課題名は「現代都市を写真で語る」とした。後藤のように「東京」へ視点を集中させて現代社会を読み解くのではなく、むしろ、現代都市と対象を広げることで、後藤の課題とは異なったテーマがあらわれることを期待した。そしてこれを「社会学A」の課題レポートとした。
 レポートについて、筆者は受講生たちに、次のように説明した。
 まず、レポートの内容は「一枚の写真で現代都市の諸相を描き出し、そこに社会学的な言説で解説を加えること」だと述べた。形式は、大きさはB5判。表紙に氏名と学科・番号を付ける。台紙となる白紙の上半分に写真を貼り、下半分にはその写真の題目、さらにその写真に関する解説を300字程度でまとめることとした。文末には日時と場所を記すように指示した。「社会学的な言説」と述べたが、これは、講義のなかで学んだ社会学の基礎用語などを用いることが可能ならばいいが、そうでない場合は、無理に当てはめることはないと指導した。ただし、写真の出来映えよりも、文章で写真を解説する部分がもっとも重要だということは強調した。
 さらに、影響を受けすぎてしまうマイナス面も考慮したが、初めて「社会学」に触れる受講生たちに雰囲気を伝える目的で、後藤ゼミのサイトから数作品を参考例として紹介した。
 この課題の目的は、「現代都市」を受講生たちがどのようにとらえているかということが一つ、そしてそれをどのような角度で切り取るかが一つ、最後にそれを文章で他人に説明することが一つであると述べた。

 4-2 全体の概略
 80名のレポート提出者のなかには、2作品に絞り込めず、3〜4作品を提出した者も数名いた。評価はそのうち2点のみ行ったが、本稿では提出された合計165点を検討しよう。
 まず、すべての作品のタイトルとコメントから、一枚の作品につき一つのテーマを抽出すると次の通りである。多い順に挙げていこう。
 11点・・・公園。9点・・・電車。8点・・・ゴミ問題、携帯電話。6点・・・行列、渋谷センター街・スクランブル交差点。5点・・・放置自転車、コンビニエンスストア、公衆電話。
 以下、4〜2点のテーマは次の通りである。
 4点・・・喫煙(未成年・女性)。3点・・・インターネット、新宿、路上駐車、都営バス、マクドナルド、百貨店。2点・・・マンション、ブランド、小学校統合、ホームレス、癒し、フィットネスクラブ、スターバックス、厚底サンダル。
 その他、さまざまなテーマが設定されていた。後にその幾つかを写真とともに紹介する。
 本節では、後に写真を掲載しないもののうち、3テーマを取りあげ、作者の記述から、どのような観点で撮影・コメントされているのかを紹介しておこう。
 最初に、行列を扱ったものを見ておく。これは6点あった。キャンパスが吉祥寺に近いため、受講生たちの中には、この街で過ごす者も多い。そこで吉祥寺駅周辺にある「メンチカツ」で有名な店や、テレビなどで行列がしばしば紹介されている店に行き、人々が多く並ぶ様子を見て、「日本の風潮−陳列状態のごとし−」「美味しいものを求めて−行列のできるお店−」「吉祥寺−訪れる人々を反映した街−」などというタイトルを付けていた。
 次に、放置自転車をテーマにしたものが5点あった。JRや私鉄各線のターミナル駅周辺や商店街などを撮影し、駐輪禁止区域となっており、通行者に迷惑になっているのにもかかわらず、自転車を止めている者が多いことを指摘するものが多かった。また、8点あったゴミ問題は、網を張ってカラス対策をとっている地方自治体の様子や、繁華街に溢れているゴミ、路上に投げ捨てられているゴミなどを批判したものが多かった。基本的には、ゴミを安易に出すことへの注意がなされていた。
 さて、撮影場所は、多い順に、渋谷が26点、新宿が20点となり、次の吉祥寺は12点だった。さらに、立教女学院短期大学内7点、横浜6点、自宅(周辺)6点、池袋4点と続いている。その他は、東京都区内が35、多摩地区が13、千葉県6、埼玉県4、神奈川県3などと続く。
 さらに撮影日を確認しておきたい。一番早いのは5月9日、遅いのは7月4日であった。作品数が一番多いのは6月28日、29日で、14点ずつだった。さらに、7月3日(提出日前々日)も13点だった。提出された作品の過半数は、6月下旬から7月上旬にかけて撮影されたのである。レポートの提出に間に合うように駆け込みで撮影したとも考えられるが、一方では、この前期の講義を聞き続け、自分なりに「社会学」というものをよりよく理解しようとしてから、撮影に向かったとも考えられる。

4-3 事例
 それでは、ここで3点の写真・コメントを見てみよう。写真はレポートに貼り付けられたものをそのまま焼き増しし、タイトル及びコメントは、若干の誤字以外、レポートのままを収録した。その際、採用した受講生については所属と学年のみ記載した。

     【写真@】

 @三鷹台公園のオジサン−父親の「役割」− (英語1年)
 ある5月の火曜日、午後2時頃の三鷹台公園のずらりと並ぶベンチには疲れ果てたオジサン達が、ずらりと寝転がっている。これは、午後2時頃の風景である。会社員であれば、とっくに昼休みは過ぎている時間である。世のオジサン達は、疲れている。総務庁の5月労働力調査によると完全失業率は、4月より0.2ポイント低下し、4.6%となり2ヶ月連続で改善している。完全失業者も前年同月比6万減の328万人で、1997年4月以来37ヶ月ぶりに前年同月を下回った。景気の先行指標とされる新規求人数は増加傾向にあるとはいわれているものの、企業買収・合併・分割によって職を失い、父親という家庭内での役割も壊されてしまっているようである。現在、騒がれている十代の少年による脅迫事件の背後には、父親という存在が見られない。火曜日ということもあってか、家族もしくは親子の姿が見られなくなっている。
 この三鷹台公園の並べられたベンチが、お弁当を持ってくる家族で汚される日は、くるのだろうか。                  (5月9日午後2時 三鷹台公園)

     【写真A】

 A病院、そこは集会場−高齢化社会の現実− (英語2年)
 ここはある眼科病院の待合室。時間は朝の9:30。まだ診察が始まったばかりである。それなのに待合室は多くの人が並んでいる。それも高齢者ばかり。バイトの店長がこの間愚痴を言っていた。「どうしてあんな朝は早くから病院に老人がいっぱいいるのかしら。順番が回ってこないわよ」と。なるほどその通りであった。一人で入ってきた70歳くらいのおばあさんは、座ってすぐに隣の老人話しかけていた。まるで寂しさをまぎらわすかのように。しかし、全体を見まわすと、静かな雰囲気に包まれている。ここは高齢者が自然と朝早くから集まる一つの集会場だ。
 日本では高齢化が深刻化し、近年、65歳以上の老人が全人口に占める割合は14%以上に達した。20年後には全国平均で4人に1人が65歳以上の高齢者になるといわれている。
 この病院の待合室は、このような日本の現状をそのまま映し出しているように思われる。これからは、もっと多くの公共の場が高齢者のコミュニティーと化すだろう。
                            (6月9日9:30 横浜市)

     【写真B】

 B立ちすくむ公衆電話−携帯電話大普及の裏で− (幼児教育2年)
 ここは、JR新宿駅西口の一角である。この写真に映っているのは、約20台の公衆電話とそれを利用する一人の老人である。しかし、20台もあるのに利用者は一人きり。もう需要があまりないのである。今、携帯電話の普及が激しく、その加入者の数は平成7年の1020万人の5倍にもなる、5219万人に膨れ上がっている。しかし、そこでは変わった状況が見られ、携帯電話の年齢別利用状況は20代の24.4%に比べて、60代は0.4%という全体比になっているのだ。これは、何一つ不自由のない現状維持派の老人と、より便利なものへの推進派の若者との対立関係である。こういった現実の中、あまりにも使われなくなった公衆電話を救ってくれるのは老人であり、老人達は知らないうちに公衆電話の未来を背負っているのではないか。        (6月23日18:30 JR新宿西口)

 いずれも、テーマに沿った情報を自ら収集し、コメントに加えていた。これは本稿で取りあげた作品だけの傾向ではない。多くのレポートでは、文献その他から情報を得て、自らの主張を補強している。
 @はこの公園の写真から「十代の犯罪」に結びつけていくところで多少言葉が足りないかもしれない。だが、300字程度という字数の制限は考慮したい。資料の丸写しで終わってしまったようなものもあるが、多くは上記のような、データを踏まえたでの独自の主張を記述するスタイルになっていた。受講生たちはこのレポートで、撮影対象の印象や感想だけを綴っているのではない。

 4-4 他者の視点
 「社会学B」の2回目の講義のときに、上記に挙げた作品など16点の写真を、白黒縮小印刷した上で配布した(「社会学A」履修者へは、写真を用いた講義を後期に実施することと紀要論文の素材とすることは予告済み。なお、作者はすべて匿名)。行列の写真を4枚並べ、コメントの差異や撮影の角度によって印象が変わることを確認したり、自ら気に入った写真1点を選んで、撮影者になったつもりでコメントを付けるというRPを試みた。
 そこで、作者と後期受講生の視点の違いを見てみよう。

     【写真C】

 C都会の日常−見慣れてしまった小さな風景− (英語1年)
 この写真は、平日の午後8時、新宿西口のバスターミナルから駅へ行くための階段である。
 まず作者のコメントを部分引用しよう。「雨に濡れた地面が滑りやすくて危ない。誰も手を貸すものはいない」。「ずっと都会で生活してきて、そんなことに慣れてしまったはずの私の目にも、このおばあさんの後ろ姿は寂しく映ったのである」。バリアフリーが日常でよく聞かれるが、現状は、それとは程遠いという一つの現象を写し取ったものだろう。「そんなことに慣れてしまった」と告白している彼女ですら、今一度、現状を見渡すと、おばあさんが「寂しく映」るというコメントになるのだろう。
 この写真に対しては、次のようなRPがあった。
「・・これに限らず、このような問題に対応できる設備が非常に少ないのではないか。私は企業に販売ターゲットを若者にするだけではなく、高齢者の方々が快適に暮らせる方向にも目を向けて欲しいと思う」(英語1年)。「歳を取れば誰もが体が不自由になっていくものである。リュックの肩ひもがはずれてしまっているのにも気がつかず、誰も助けてくれない夜の階段を降りていくおばあさんには孤独という文字をはっきりと背中に背負わずにはいられないような気がする」(英語1年)。
 前者は、この写真から社会全体へと目を向け、後者は作者すらコメントしていない、おばあさんの肩ひもに言及するなど対象に強い関心を寄せている。作者自身は「見慣れた」と述べているが、「珍しい」ととらえる受講生もいた。それぞれの生活環境の差異は、同じ対象へ視線を投げかけたときも、大きく異なるとらえ方として表現されるという例である。

     【写真D】

 Dもうひとつの100円ショップ−新刊雑誌のリサイクルショップ− (英語2年)
 この写真は川口駅前で撮影されたものである。
 作者は「この川口駅はすぐそばが、バスのロータリーなので、会社帰りのバスの中での20、30分を埋めたいサラリーマンにとって、100円の新刊は好都合なのでしょう」とまとめており、好意的にとらえていた。
 これに対しRPの中には「駅などのゴミ箱で雑誌を拾うホームレスの姿もよく目にする。・・全ての過程を目にしている私は、どんなに安くても雑誌を買う気にはならない」(幼児教育1年)と否定的なコメントの者もいる。
 また、この作者は「どこの店も2、3人の集団で営業していました」。「木陰で休」む先輩格と「接客をしている」新米格がいるとの観察の様子も描いていた。

 先述の写真Aについては、次のようなRPもあった。
 「具合が悪く病院に行くと・・・ゲートボールの話だったり、カラオケ大会の話だったり、『カラオケでは何を歌うのかね?若者にはついていけん』とおじいちゃん。こっちは答えるのも一苦労なのに、めっちゃ笑顔で聞いてくる。なかなか高齢化社会もたのしそうである」(英語2年)。「おじいさん、おばあさんとの交流の場がまだまだ少ないように思われる。・・この現状は、政府の高齢化社会の対策の遅さを物語っているようにも思われるし、現代の地域交流の少なさも物語っているように感じる」(英語1年)。
 高齢化社会という語は、受講生たちにとってどのようにとらえられているのだろうか。祖父母との交流などの有無、その他の生活体験によってが感じ方見方が大きく変わるだろう。そしてそれは、一枚の写真へのRPからもよく分かるのである。

5 若干のまとめと今後の課題
 筆者の講義について述べた後、受講者のレポートを中心に、「社会学的想像力」を喚起する取り組みとして写真観察法を紹介し、その内容を具体例によって論じてきた(12)。
 提唱者の後藤とは異なり、あくまでも短大教養科目「社会学」における試みである。受講生たちが写真を撮りコメントをつけてレポートを提出する段階で、果たしてどの程度「社会学」を理解できているかどうかの判断は難しい。
 先述の通り、筆者は受講生に必ず社会学用語を使うようにとは指導していない。モノの見方を養うことを第一に考えて、その視点を自らが使える範囲で表現すればいいことにしている。だが、例えば、「群衆」「甘えの構造」「意図せざる結果」などの社会学(関連)用語を用いることで、自分なりに「社会学」を消化しようとしているレポートも少なからず見られた。
 写真を撮影し、それを自らの持っている語彙を組み合わせてレポートにする作業、さらには他者の作品を批判的に見直す作業、これらの実践は決して容易ではないが、「社会学」のおもしろさを実感できるものでる。それは、前後期のRPにおいても数多くコメントされていた。これによって、社会学の醍醐味となる、「自分(自分の世界)を知る」という喜びにつながることを筆者は期待したい[野村 1994:281]。
 最後に、このレポートで見い出された問題について、筆者が研究・教育においてどのように展開していく予定かを述べて結びとしたい。
 本稿で取りあげたレポート群は、受講生が「切り取った」現代都市の一部ということになる。渋谷・新宿・吉祥寺を舞台にした写真が多く、同じテーマのものも多かったことを考えると、多様だとは一概に言い切れない。つまり、受講生たちの関心、もしくは「現代都市」への見方は、一定程度の傾向も感じられるのである。後藤たちが見出したテーマと異なっているものは、少なくとも今回は見出せなかった。
 このレポートを毎年実施し、その積み重ねによって、受講生たちが「現代都市」をどの範囲でとらえているのは、ある程度浮き彫りにできるかもしれない。後藤ゼミ(「東京人」観察学会)は6年分の回顧展を開いたが、1994年の作品を見ると時の流れの早さを実感する。
 個人的な問題のなかに、社会的・歴史的な原因や根源となっているものを見つけ出す能力。すなわち、個人的経験の自覚を、どのようにして社会科学的な認識に高めることができるかということ、それこそが「社会学的想像力」なのだとすれば、受講生たちのレポートへの取り組みは、これまでみてきたように、まさにその営為の一つだと言えるのではないだろうか。
 自らの生活体験から乖離した写真を撮るのは難しいだろう。18〜20歳の受講生たちによる「現代都市」のとらえ方を、より詳しく検討していくことが、筆者の今後の課題となるだろう。

【註】
(1)大学の大衆化については、[原・浅野 1983]などを参照。
(2)自己評価システムとしては、東海大学の試みが知られている[安岡他 1999]。
(3)東京大学と京都大学の教養学部・教養部の改革については、さしあたり[苅谷 1998]を参照されたい。
(4)1990年代のアメリカの高等教育について、現役大学教授が描いた現場報告がある[サックス 2000]。日米の比較として[苅谷 1992]も参照のこと。
(5)まず、メディア教育開発センターが、語学・生物学・工学・法学などさまざまな分野の教員の試みを紹介したガイドブックを参照されたい[伊東・大塚 1999]。その他、京都大学での公開実験授業の報告[京都大学高等教育教授システム開発センター 1997]、などが刊行されている。
(6)社会学のテキストは大変多く出版されているが、出身大学(院)や現在の所属が同じ者たちが、自らの専攻ではない部分も、それ以前のテキストをなぞった形で執筆しているものも見られ、安易な出版がないとは言えない。筆者がとくに挙げておきたい優れたテキストに[友枝他 1996]、[中野 1996]、[野村 1999]などがある。
(7)金子勇は、自らの25年間の社会学研究を概括する上で、この語に「社会学的創造力」という語を加えて論を深めた[金子 2000]。また、「想像力」の議論としては[厚東 1991]が大変有益である。
(8)後期は「人生と宗教の社会学」というサブテーマで、前期レポートの優秀作を材料に社会学的視座について述べた後、「人生の社会学」として、現代医学と「生」の問題・「死の哲学」・高齢化社会における自己表現などを述べた。そして、「宗教の社会学」に関して、キリスト教やインターネット・現代若者と宗教・日本の近代宗教などについて、テキストを用いて展開している[大谷他 2000]。
(9)筆者のRPに近い例を紹介しておく。まず、田中一による「質問書方式」である[田中 1999]。「情報学概論」という田中の講義において、B5判の質問書を配布し、それにその時間の講義内容に関する質問とその質問理由を200字程度で説明するというものである。田中は質問の説明を重要視している。そして、田中は翌週の授業において、これらの質問に対する回答書をA4判7000〜8000字で作成し配布している。その中身は、50問ほど選択して回答し、一方で誤字の訂正も行うといった、大変丁寧なやり方である。
 同じく250名ほどの「倫理学」を担当する栗田充治の方法は「紙上討論」である[栗田 1999]。「自殺」に関する意見を2つに分け、それぞれについて6行くらいのコメントを受講生に書かせ、それを栗田がまとめて発表するというやり方である。
 さらに、細川英雄は「国語学」において、約100名の受講生にコミュニケーション・メモを試みた[細川 1995]。毎回のテーマについて意見・感想を書かせ、その内容を評価に加えると同時に、細川自身が何らかのコメントを付すというやり方である。
(10)以下の後藤範章の講義と「東京人」観察学会の活動に関しては、本人らによる幾つかの論考を参照[後藤 1996;2000:「東京人」観察学会 1997]。
(11)筆者はライフヒストリーの資料論を考察したことがある[川又 1999]。本稿で取りあげている写真も、ライフヒストリー同様、質的資料である。質的資料全体については別稿で論ずる予定だが、写真について少々述べておこう。「自身がもつワクにおいて、歴史を語らしめ、語られた歴史の共時態が、映像を豊かなメッセージにする」という岡田晋の発言に、筆者は同意する[岡田 1981:109]。写真は確かに一瞬を切り取ったものだが、一枚の中にはそこに至る過程も含まれている。だから、写真を見る者はその中に社会的意味や文脈を読みとろうとしているのだろう。
(12)本稿は「写真観察法」を検討したが、筆者は講義の課題レポートとして「ライフヒストリー法」も何度か実践してきた。筆者以外に「社会学」講義でライフヒストリーを実践した者に田口純一がいる[田口 1994]。

【参照文献】
浅野誠 1994『大学の授業を変える16章』大月書店。
後藤範章 1994「日本都市社会学と社会調査−いかに自己認識し自己転回をはかるのか」
  『日本都市社会学会年報』12:1-8.
後藤範章 1995「都市社会学と社会調査方法論−都市的社会のリアリティを求めて」
  『社会学論叢』(日本大学社会学会)123:23-45.
後藤範章 1996「マルチメソッドとダイレクトオブザーション−リアリティへの感応力」
  『日本都市社会学会年報』14:17-29.
後藤範章 2000「集合的写真観察法−都市社会調査の新地平」『社会学論叢』
  (日本大学社会学会)137:23-42.
原正敏・浅野誠編 1983『大学における教育実践』水曜社。(第一巻〜三巻)
細川英雄 1995「コミュニケーション・メモの効用−ことばについて考える授業の試み」
  『早稲田フォーラム』71:16-27.
石川実編 1997『現代家族の社会学』有斐閣ブックス。
伊東秀子・大塚雄作編 1999『ガイドブック大学授業の改善』有斐閣選書。
金子勇 2000『社会学的創造力』ミネルヴァ書房。
苅谷剛彦 1992『アメリカの大学・ニッポンの大学−TA・シラバス・授業評価』玉川大学出版部。
苅谷剛彦 1998『変わるニッポンの大学−改革か迷走か』玉川大学出版部。
川又俊則 1999「ライフヒストリーの資料論−口述生活史と自分史の比較検討を中心に
  『上智大学社会学論集』22・23:103-119.
栗田充治 1999「大人数講義における紙上討論の試み」日本私立大学連盟編『大学の教育・
  授業をどうする』(大学の教育・授業を考える1)東海大学出版会:161-169.
京都大学高等教育教授システム開発センター編 1997『開かれた大学授業をめざして
  −京都大学公開実験授業の一年間』玉川大学出版部。
厚東洋輔 1991『社会認識と想像力』ハーベスト社。
Mills,C.W. The Sociological Imagination,Oxford University Press,1959
  (鈴木広訳『社会学的想像力(新装判)』紀伊国屋書店 1995年)
中野秀一郎編 1996『ソシオロジー事始め(新版)』有斐閣ブックス。
野村一夫 1994『リフレクション−社会学的な感受性へ』文化書房博文社。
野村一夫 1999『社会学作法・初級編−社会学的リテラシー構築のためのレッスン(改訂版)』
  文化書房博文社。
大谷栄一・川又俊則・菊池裕生編 2000『構築される信念−宗教社会学のアクチュアリティ
  を求めて』ハーベスト社。
岡田晋 1981『映像学序説−写真・映画・テレビ・眼に見えるもの』九州大学出版会。
Sacks,Peter Generation X Goes to College : An Eye-Opening Account of Teaching in Postmodern
  America,Open Court,1996(後藤将之訳『恐るべきお子さま大学生たち−崩壊するアメリカの大学』
  草思社 2000)。
田口純一編 1994『こころの運動会−女子大生たちのライフ・ヒストリー研究』北樹出版。
田中一 1999『さよなら古い講義』北海道大学図書刊行会。
「東京人」観察学会 1997「写真で語る:『東京』の社会学 '94-'96」『学叢』
  (日本大学文理学部)59:32-40.
友枝敏雄・竹沢尚一郎・正村俊之・坂本佳鶴恵 1996『社会学のエッセンス
  −世の中のしくみを見ぬく』有斐閣アルマ。
安岡高志・滝本喬・三田誠広・香取草之助・生駒俊明 1999『授業を変えれば
  大学は変わる』プレジデント社。


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