森岡・宗教社会学と研究資料
1.『わが歩みこし道』
私の手許に一つのファイルがある。『わが歩みこし道』というタイトルのレポート集である。1992年度の森岡ゼミ(=文化社会学演習)に参加した学生たちは、レポート集の執筆順に記すと、竹内由紀子、大友由紀子、岡野宣勝、川又俊則、田中藤司、森田真也、季敏であった。
森岡清美・青井和夫編『現代日本人のライフコース』(日本学術振興会、1987年)をテキストに、ライフコースを集中的に学んだゼミだった。社会学のみならず、人類学や民俗学を専攻する者も加わったため、さまざまな視点も学べ、私にとって刺激的な思い出深いゼミだった。
さて、この資料がどのような意味合いのものだったのかを、森岡先生の「はしがき」から引用しておく。
私は、参加者めいめいが、自分の歩み来たった足跡をライフコースの視角 から照らしだし、これをまとめてみることは、学習したことをわがものとす るために意味のある作業だと考えて、そのレポートを学年末までに提出する ことを求めた。この要諦に応じて提出されたレポートは、いずれも個性的な ものである。同じくライフコースの視角を学んでも、まとめる人の経歴と関 心の在りかによって、随分と色あいを異にする記述になることを改めて認識 した次第である。
大学院の院生と指導教授という制度上の関係でいうと、私は森岡先生に3年間しかついていなかったことになる。博士課程前期2年間と後期1年間である。多くの諸先輩が10年を越える関係を持っているのと比べるとはるかに少ない。だがその3年間は、私にとって、その後の研究の基礎となった大変貴重な時間だったと断言できる。論文の書き方一つをとっても、見ていただいた原稿が修正で真っ赤になり、それを前に、十分に吟味せず用いた語句について、なぜ他の語句ではなくそれを使ったのかを厳しく問われ、答えに窮した経験が何度もあったことを思い出す。
先生が成城を退官された後は、宗教人類学の伊藤幹治先生に指導教授をお願いした。同時に、西山先生の大学院ゼミへも、その後ずっと参加させてただいている。
もちろん、私はその後も、森岡先生にご自宅や学会会場で、さらに手紙やお電話などで、さまざまな指導をいただいている。だが、ここでは、在学中の3年間を中心に、大学院での森岡先生との出会い、そして先生に学んだこと、さらには、その後の私の研究が、先生のご研究とどのようにつながっているのかを述べたい。先のレポートでは、他のゼミ生が客観的に書こうとしていたのに対し、私は思い入れたっぷりに主観的に書き込んだ。今読み直すと恥ずかしいくらい情緒的な記述が目立つが、一方では、自らの「転機」を中心テーマに、当時の心情が込められてあり、日記を書く習慣がない私にとって、当時の自分が分かる貴重な資料となった。
実は昨年末の引っ越しまで、5年間位この資料の存在を失念しており、現在、自分史研究を進めている私の原点はここにあったのか、と感慨にふけったファイルだったのである。
以下、とくに「研究資料」に重点を置きながら、研究自分史を綴っていく。
2.一次資料への接近
上智大学4年の夏、奄美・加計呂麻島での調査に参加することを安齋伸先生に許された。初めて訪れた奄美は非常に暑かった。地元の人との酒宴や、夕方の水泳ばかりでなく、補助的な調査も行った。集落の墓地にある墓碑の内容をすべてノートに記入する作業は、日中のまさに灼熱の太陽の下で一人で行った。田島忠篤・岩井洋・野村浩也先輩たちの指導を仰ぎながら(安齋先生からは、調査地の人々との深い信頼関係や、調査地へのとけ込み方などを身をもって教えていただいた)、とくに地元の人とのふれ合いを感じ、現地調査の醍醐味を味わった私は、大学院で本格的に宗教社会学を学ぼうと思った。さまざまな宗教が生活のなかに混在している奄美の雰囲気にすっかり引き込まれたのである。
だが、安齋先生の退官が目前だったため、宗教社会学を学ぶのであれば、森岡先生のところが良いだろうという助言をいただき成城大学大学院を受験した。
面接のとき初めて森岡先生にお目にかかった。「君の卒論は二次資料で論じていて、全然だめである。一次資料にあたらなければ・・・」。
安齋先生からは視点が面白いと言われた卒論は、立正佼成会の「共働の教祖」に着目したものであるが、後から読むと全く論文として「なっていない」内容だった。筆記試験が終わった翌日の面接試験では、他の先生が驚くほど厳しく(先生ご自身としてはかなり抑制した発言だったろうと推察するが)指摘された。それは私にとって、実証研究における「資料」の重要性をたたき込まれた最初の経験だった。同時に、指導教授に厳しく指導を受けた最初の経験でもあった。
そのような面接にもかかわらず、幸いにも成城に合格できた私は、当然、森岡先生の指導を仰ぐべく、そのゼミ生になった。すでにゼミ自体が家族社会学へシフトしていたため、3年間のゼミはすべて家族社会学のものだった(そのため、「森岡・宗教社会学」最後の弟子を自称している)。
家族社会学のゼミでも、自分にとって有益なさまざまなことを学べた。とくに、山梨県勝沼で行われた1992年の反復調査の調査員に加えていただき、26年前の調査データに記された諸先輩の字を見たり、前回の調査から次世代へ継承されたことを目の当たりにしたり、さまざまな感激や、調査の厳しさなどを味わったことは忘れられない。
さらに森岡先生は、宗教社会学を志している私だけ個別に、ご自身の宗教社会学の著書を最低一ヶ月一冊読み、書評的な文章を書くように仰って下さった。そしてその文章を先生が読み、質問にお答えいただきながら、読みの拙さなどを指導していただいた。
『真宗教団と「家」制度』から始まったので、最初の一ヶ月は大変辛かったが、それを乗り越えた後は、なんとか食らいつけたのではないかと思う。著書の後は、著書に含まれていない論文である。すべて自分の関心で選んだため、先祖祭祀やキリスト教関係が多かった。それは博士課程前期の2年間、ずっと続けられた。
先生の著書・論文を読むときに、当時の私が意識したのは資料の作成とその扱い方であった。その論文のために、一次資料をどのように探し、あるいは自ら作成していったのか、議論の展開と同時に、そのことを学ぼうとしていた。先生の対象は仏教以外にも、キリスト教・神道・新宗教と多種多様であった。だが、一貫して、自ら作成したり、探し出した資料を用い、既存の資料も適宜変換させて用いて議論を展開していた。後に実証的な研究にもとづいた修士論文を作成する際にも、論文として自らの考えを述べるにあたって、その議論のもとになる資料を見出すことの重要性を、一つ一つの著書・論文から学び取っていったのである。
3.キリスト教会調査
修論は新宗教教団を対象にして書こうと思っていた。それは、私の関心は相変わらずリーダーシップにあったことと、とくに卒論で取り上げた「共働の教祖」を、もう一度じっくり考察したかったからである。二次資料ではなく、一次資料によって、独自の議論をしていきたいと思った。そして、一次資料を得るために、自分一人で調査可能で、なおかつ、あまり他の研究者たちが取り上げていないような教団を探した。
さまざまな対象が考えられたが、幾つかの先行研究にあたり、また『新宗教事典』などで検討した結果、箱根に本部のある小さな教団を見出した。そこで、本部へ直接うかがうことにした。訪問の目的を予め告げ、教祖に会う約束を取り付けたものの、結局教祖には会えなかった。幹部とは面会できたが、今後、調査研究目的の訪問や、私の修論の対象になることなど、調査への協力は完全に拒否されてしまった。先生にもご協力をいただいたが、ついに、修論の構想は白紙に戻された。
その後、対象選択に苦しんでいた私に、思いがけない話が舞い込んできた。それはキリスト教会での調査である。日本基督教団の大森めぐみ教会における教会教育に関する調査を、森岡先生が磯岡先輩とともに実施する際、その手伝いをさせていただけるというのである。一にも二にもなく参加した。
日曜礼拝への出席、岩村信二牧師との面接などと同時並行で、日本におけるキリスト教の歴史やキリスト教自体の基礎的知識を得るべく、個人的に勉強した。そして、教会教育の成果を調べる調査のなかで、死者儀礼に関して他の教会よりも熱心に取り組んでいるこの教会においても、信徒たちの行動には牧師の意図とずれている部分が分かるに至って、キリスト教会と死者儀礼というテーマが浮かび上がったのである。
まだ力不足で優れた修論にはならなかったが、質問紙調査のデータに加え、教会員宅にあるキリスト教祭壇や仏壇などを拝見しつつ、面接調査を行うなどで自ら資料を得ているうちに、どんどんこのテーマにのめり込む自分を発見した。そして、このテーマが「宗教の地域社会への受容と定着」の一部だと気づいた。先行研究を学ぶうちに、さまざまな対象を事例に、森岡門下生が何人も取り組んできたテーマだということも分かり、さらに熱心に取り組むようになっていった。
やがて、大森めぐみ教会での調査も一段落ついた。私は、東京の他の教会で日曜礼拝を重ねながら、死者儀礼の実態を調べた。その結果、教会敷地内に大きな納骨堂を備えているのは、東京では例外的であることや、百名以上の礼拝出席者をかかえる教会は、必ずしも多くないことなどを知った。そして、自分の見識を広げるために、東京都下に位置する日本基督教団すべての第一種教会(信徒数などで三区分したうち、規模が大きい教会)を対象に、死者儀礼のなかでも具体的に墓地に関してどのような対応をしているのかを調べた。聞き取り以外にも、教会史である程度の実態をつかみ、自ら質問紙を作成し、訪問していないところは電話で調べた。
その調査を下敷きに、東京以外の地域での実態を調べることにした。その際、先生にご助言をいただき、東京では必ずしも顕在化していなかった、伝統的宗教との衝突の状況も見い出せるような地域として、東北地方の教会を対象に設定した。質問項目を練り直し、郵送法によって日本基督教団すべての教会を対象にした調査を試みた。
回答率は64%ほどだった。回答のあった質問紙を分析し、教会墓地を大きく3つに類型化した。その類型の代表的な墓地を保持する教会など、30余の教会を訪問した。その際、日曜礼拝に出席し、墓地を見学し、さらに牧師や教会員の方々から、死者儀礼の実態を聞き取った。そして、福島市の信夫教会という典型的な教会を見出した。この教会の小林喜成牧師は私の研究に共感して下さった。そして、全面的に協力していただき、3年間にわたる調査を行うことができた(それをまとめたものとして「教会墓地にみるキリスト教受容の問題」『年報社会学論集』11号、1998年がある)。
森岡先生は主に、1950年代から60年代にかけてキリスト教会調査を実施した。私はこれらの研究に学びながら自らの調査を進めた。ただし、先生の中心的な関心は教会の形成と展開過程であり、明治期のプロテスタンティズムが主な調査対象だった。私自身は第二次大戦後のいわゆる戦後ブーム期を経た後の時代に関心があった。したがって、対象への視点は当然異なる。ある一つの教会が地域社会に入り込み、信者を獲得し定着する過程を、さまざまな文献資料で後づけし、生存者への聞き取りを行って一次資料を得ていく先生の手法と、それらはあくまでも背景として押さえるに止め、現在の信徒たちの面接調査により得られたものが大部分となる私の手法とは、研究関心の差異によるところが大きい。
4.ライフヒストリーへの志向
私はその後も日本のキリスト教に関する研究を進めている。死者儀礼について聞き取っていると、結局、その対象者の人生全体を聞くようになることも多かった。そのうちに、対象者の語るさまざまな生きざま全体を研究としてとらえたいという気持ちがおこってきた。
森岡先生にはライフコースを学んだ(もちろん、そのなかにはライフヒストリー・生活史という語は出てきていた)が、対面状況の中で得られる個々人の語りを中心的な資料とするライフヒストリーという語を、私が明確に意識し出したのは中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』(弘文堂、1995年)を読んでからだろう。森岡先生が淑徳大学へ移られ、頻繁にお会いすることがかなわなくなってからのことである。東京教育大学で先生の同僚だった中野卓先生とは、生活史研究会へ参加するようになった1995年秋にお目にかかった。その後、年4回の例会ごとに、色々な経験談などを通じて学ばせていただいている。
森岡先生の著書のなかに、ライフコースの観点から個人的記録を用いた『決死の世代と遺書』『若き特攻隊員と太平洋戦争』という2冊がある。私の関心がちょうど「個人」へ向かっていったこともあり、この90年代に刊行した2冊の著書からは、多くを学んだ。先生ご自身は「学術研究書の枠を逸脱した」と述べられているが、私の研究には大変有益だった。
その後、私は現在に至るまで、ライフヒストリーを追究すべく研究を進めている。当然ながら、ライフヒストリーはライフコース研究に関連した一方法である。ライフヒストリーのなかで自分史を資料にした研究を進め始めた私が、再度この先生の著書を読み返したときに、どの方向を向いていても、結局、森岡先生から離れていないことを改めて気付かされたのであった。
先に挙げたレポートで私は、学部までの簡単な生活歴と、大学受験失敗および上京という転機と、その時期の友人関係などを綴った。その後の時期を中心にレポートを書くならば、上記のようにまとめられるだろう。他の多くの諸先輩同様、研究を志す者として、森岡先生からいただいた学恩は書き尽くせないものがある。森岡先生の成城大学大学院の最終講義のときに、最後のゼミ生に下さった言葉を引用して、結びとしたい。現在まだ何一つものにしていない私は、しかし、これらの言葉を胸に懐いて研究し続けてきたし、今後も続けるつもりである。
所感
1.大きく見て、研究第一主義を貫け。
2.自己点検による自己改造を怠るな。
3.自分に妥協するな。しかし、最後のところでは自分を認めてやれ。
4.学問の進歩が目的であって、自分が学問をして有名になることが目的ではない。
5.成功したときよりも、失敗したときに人間は進歩する。失敗を悔やむな。失敗から教訓を得て立ち上がれ。