<信徒周辺>の信仰生活
−キリスト教信徒の自分史を資料として−
Christian's life on the self-narrative story
1 問題の所在
これまで宗教研究の対象は、教団・教会が中心だった。その際、教団・教会へ調査者が赴き、その指導者たちや積極的に関与している信徒層から資料を得て、考察することが多かった。指導者たちを対象とした場合は、その人物に関連する膨大な文献資料などを用いて考察された。信徒たちが対象となる場合は、その意識や行動を質問紙法によりとらえ、その結果を量的に分析していた。
もちろん、それらの研究は我々に多くの知見を与えてくれた。だが、これらの調査では、教団・教会の行事などにあまり参加しない信徒たち、さらには、教団・教会から信徒と認知されていないような「自称」信徒たちへ接近することは困難である@。従来の研究で扱われなかった「信徒周辺」の信仰生活の諸相を明らかにするにはどうすればよいのだろうか。
この課題には、教団・教会以外の場所で「信徒」たちの資料を収集する方法が要請される。そこで筆者は、近年多く刊行されてきた「自分史」に注目したA。自伝的資料を扱った研究は「ライフヒストリー」研究として多くの成果が挙げられてきているB。その多くは口述生活史を資料としており、方法論的な議論も多い[川又
一九九六]。筆者自身、これまで幾つものキリスト教会の信徒たちから口述生活史を得てきた。だが、本稿の目的は、教会中心の調査では見い出せない対象に接近することである。そこで、信徒自身が執筆した自分史によってその信仰生活を観察し、教団・教会から離れてしまった「信徒」たちに関しては、その理由やその後の様子などを考察しようと思うC。
研究対象としてあらゆる宗教教団の信徒をランダムに取り扱うと、問題意識が拡散して建設的な議論にならないだろう。筆者は「現代日本におけるキリスト教の受容と変容」というテーマで調査研究を進めている[川又
一九九四]。この「キリスト教受容」の問題は、受容した層だけにアプローチすると一面的な考察になってしまう恐れがある。キリスト教を受け入れなかった層や受け入れた後に棄てた層なども含めて広く見ていかねばなるまい。このような筆者の関心に従い、また、その調査経験を踏まえた考察ができると思われたので、本稿ではキリスト教信徒たちの自分史に焦点を当てるD。
繰り返すが、本稿で筆者は、従来の宗教調査では把握しにくかった対象を中心に取り扱う。具体的には、キリスト教信仰を持ち受洗はしたものの、その後教会から離れた(ことのある)人々や、受洗せず教会生活を送らないが、神を信じて聖書を読み続ける信徒たちの信仰生活などを、彼・彼女自身が綴る個人史により分析していくのである。
なお、この研究は現時点ではまだ「理論的飽和(theoretic-al
saturation)」[グレイザー、ストラウス 一九九六:八五]に至ったとは思っていない。従って、本稿は今後の研究の基礎的考察と位置づけておく。
2 自分史という資料の特徴
まず「自分史」の特徴を確認しておこう。
【 図1 は略 】
単純すぎるきらいはあるが、図1は、対象の立場と執筆主体による自伝的資料の区分であるE。著名人・指導者層や公人として扱われるような立場の対象の個人史を自伝・伝記、無名人・信徒層や私人として扱われるような立場の対象の個人史を自分史・口述生活史としたF。また、対象となる本人が執筆したものを自分史・自伝、他人(調査者など)が記述したものを伝記・口述生活史とする。
自分史と自伝は対象の立場で分けた。「自分史」という語を提唱した歴史学者の色川大吉は[色川
一九七五]、この語を「庶民が自分の生活史を自分自身で書いたもの」と執筆者の立場に言及して定義づけている[色川
一九九三:一九九]。筆者も他の研究者と同様に、自伝の「大衆化」したものを自分史ととらえている[田上
一九九七:一三一]。
その上で、これまでの自伝的資料を取り扱った宗教研究を概観すると、それらは全て「自伝」研究ということになるG。
もちろん、主人公と著者と書き手が同一という基本的構造自体は、自分史と自伝は等しいH。
自分史と口述生活史は執筆主体で分けた。換言すれば、調査者の媒介があるかどうかという違いである。自分史は執筆者本人が過去の経験を限定して記した資料とも言える。口述生活史を文章化する際、調査者は対象者以外の人物へ面接したり、他の資料と比較したりしてクロスチェックを行い、対象者の「語り」の事実性を確認する。そして「語り」に対して加筆・削除・修正を行い、注釈を加えたり時系列の配列を施すなどの編集作業を行う。その際、対象者自身が編集作業に加わることもあるI。
「自分で史料を選択」する自分史は、「聴き手(読み手)にとって有意味なことを無視」しているとの批判もある[桜井
一九八六:八六]。だが逆に、執筆者の意図がより明確に表現されている資料だという見方もできるだろう。筆者は、調査者からの質問の応答としてではなく、積極的に自分自身が自らの信仰を述べているという点を重視して自分史という資料に注目したのである。
ここで、自分史を扱う注意点を先行研究で確認しておこう。
山田[一九九二]は、男性二○名の自分史を資料に、彼らのライフ・イベントが、それぞれの発達にどのような影響を与えているかを、生涯発達的視点から考察した。その際、自分史執筆者自身に関する記述のみを扱うことで、信頼性と妥当性の確保を目指した。吉谷[一九九七]は、明治期に少年時代を過ごした人々の読書生活の様相を究明した。その際、執筆者の周辺史料の検討や、出版史・教育史の援用、さらに資料の最大公約数をとるという形で全体像を把握しようと心がけた。
これを参考に、本稿ではまず、自分史執筆者の基本属性と生活歴に着目した。出生年・受洗年齢・職業・教派などの客観的事実に関しては、筆者が全体を読んだ限りにおいて虚偽とは考えにくかったので、記述通りに扱い表にまとめた。次に、扱う事例が少ないので、全体の理解の一助として、筆者がこれまでの調査で得た口述生活史なども援用した。また、できる限り、自分史執筆者へ面接・手紙・電話などで記述内容を確認するよう心がけ、新たな情報も得た。
3 キリスト教信徒たちの自分史
(1)対象選択・基本属性
本稿は一四冊の自分史を取り上げた。その際、日本国内で出版された全ての自分史を無作為抽出したわけではない。自費出版図書を収集している二つの施設において、九七年八月時点で収集されていた約一六○○冊の自分史を筆者が読み、内容を検討し、次の条件を満たすものだけを選択したのであるJ。
その条件とは、(T)キリスト教に言及しているもの、(U)基本属性などの必要事項が書かれてあるもの、(V)成人後期・または老年期に達した人々が自分の一生を回顧して記述しているもの、である。T・Uは当然だろうし、Vについては、数年間の出来事を中心に書かれた自分史も近年見られるので[小林
一九九七:一八七]、それは除外し、長いスパンのなかで信仰をどのように描いたのかという筆者の関心に合うものを条件としたのである。
一四人の属性を、表に従って簡単に見ていこう。
【 表 は略 】
男女同数の七名ずつである。出生年は一九一○年前後が四名、一九三○年前後が三名とやや集中している。前者は喜寿、後者は還暦が出版契機となっていることとも関連するK。学歴は尋常小学校から大学まで、職業も女性は主婦が多いが、男性は会社経営から牧師まで様々であり、転職経験者も多い。以上から、多様な経験を持つ対象であることが理解されよう。出版時年齢が五○歳以上という年齢の偏りは先のVの条件による。また、信徒数に相応していると思われるが、カトリックや日本基督教団という伝統的教派の信徒が多かった。
(2)類型
本稿では、教会生活を続けた(A)・教会を離れて信仰を持っていた(B)・信仰を棄てた(C)という三つの類型を設定して、図2に示した。
【 図2 は略 】
キリスト教では信仰に迷いが生じて教会から離れたり、他の教派・宗教へ転ずることなどを「躓き」と表現している。図2の螺旋部分は「躓き」の状態を意味する。図2において、全く躓かない信徒は(A)や(B)へ螺旋を描かずに進む。何らかの「躓き」経験を経た信徒は、その後、(A)(B)(C)のいずれかへ進む。
この「躓き」を考慮すると、(A)は「大きな躓きは無かった(イ)」と「教会を一時離れたり、他教派へ転じた(ロ)」に区分できる。(B)は「受洗した後に教会を離れた(ハ)」と「受洗せずに信仰を持っていた(ニ)」に区分できる。信仰を棄てた(C)は「躓き」の一つである。これまでの教会調査では(A)の信徒たちが主な対象であり、(B)(C)の「信徒」をとらえるのは難しかったL。
本稿の一四例は次のように分類される。
(A-イ)=八例、(A-ロ)=三例、(B-ハ)=一例、(B-ニ)=一例、(C)=一例。
以下、それぞれの事例を具体的な表現を用いながら考察していく。その際、自分史の記述は部分的に引用していく。紙幅の制限と事例数を考慮して「体系的な分析をせずに全部を提示、全ての事例の分析結果を示しその例証として部分的な引用の提示、分析結果と典型的な事例の提示、分析に基づいた統合的な事例の提示」というライフヒストリーの提示方法[Helling
1988:227]の二番目の方法を採用した。
なお、引用に合わせて和暦を用い(他の本文では西暦を使用)、表にあるように自分史執筆者の名字と番号を付した。
(3)教会生活を続けた信徒
大きく躓かずに教会生活を続けた信徒たち(A-イ)八例は、受洗時期により、青年期(三例)・結婚前後(三例)・老年期(二例)となる。順に見ていこう。
青年期に受洗したうち、田代(事例3)と二木(事例8)はキリスト主義学校の教師と牧師という職業柄、受洗以降も常にキリスト教が生活の中心であった。
田代は日曜学校でキリスト教を知る。キリスト教主義学校へ入学し、修道女の話に耳を傾けるうちにキリスト教にひかれていく。神道を信奉する父の反対もあり、学生時代には受洗できなかったが、二○歳になり教師となった大正一二年に受洗する。二○年間、母校で国語科教師として勤務し、第二次大戦後はケースワーカーへ転身。大腿骨骨折による入院を機会に自分史を書いた。
二木は基督兄弟団の牧師となり、全国各地で伝道している。自分史にはその思い出に残る伝道場所での生活を中心にまとめている。聖書の一節「我らを再び活し給え」を自分史の題目にし、執筆の目的として、「私自身の信仰生活の上に於いて、神は活きておいでになる、祈りは聞かれるものだと言うことを、記録に残したい」と述べている。
嶋根(事例6)は幼いころより海外への憧れを持っていた。そして昭和五年に日本力行会海外学校へ入学、そこで聖書を読み、讃美歌を歌い、積極的に路傍伝道などをした。翌六年一一月に受洗し「信仰のけじめ」をつけ、翌年夏にインドネシアへ渡る。邦人雑貨商へ勤務し、結婚後は自ら雑貨商を営むも、戦火が激しくなった一六年に帰国。戦時中は通訳として再び、インドネシアへ渡った。戦後引き揚げ、日曜学校を行うようになり、日本基督教団朝霞伝道所(当時)の建設にも尽くした。もともと近江兄弟社へ傾倒していた嶋根は、鋼材商として、朝霞兄弟社を三五年に設立した。
この三例は聖書の一節を数多く引用しており、ここからも信仰が生活に根付いていることが読みとれる。
次に、結婚前後に受洗した三例である。
小林(事例5)は結婚相手がクリスチャンホームに育つ信徒だったことが、キリスト教との出会いだった。自らも結婚を契機に受洗した。その後、満州の病院に勤め、戦後は自ら薬品会社を経営する一方、教会の長老にも選ばれた。「日曜ごとに家族全員で礼拝へ出た」が、仕事が忙しくなると「家庭で落ち着いて聖書をひもとく時間はもてなかった」という。三人の男児に恵まれ、さらに孫の一人は高校二年で洗礼を受けた。「小林家は五代クリスチャンが続」いたとの喜びを述べている。
清水(事例12)も配偶者が信徒だった。多少キリスト教に関心があった清水は「教会堂の中で祈るという雰囲気にはどうしても馴染め」ず、「日本では、クリスチャンと言われる人々が、多少なりとも好奇な眼で見られる」ため「仕事の上での妨げになりかねないと」思っていた。だが、見合いし交際が進むうちに教会へ通い出し、「悪いことでもなさそうだから跳び込んでみるか」というように思い洗礼を受けた。
その後、通っていた教会の神父たちの高潔さに惹かれ、五人の子供にはすべて幼児洗礼を受けさせ、「事情の許す限り、カトリックの教育を受けさせる」方針を持つに至った。受洗から「現在までの三十年間の人生で、神が自分を見守ってくれているという実感が、徐々にではあったが、心の中に形づくられて来た」とも述べている。
田中(事例14)は結婚前に受洗し、所属教会の牧師に紹介されたキリスト教信徒と結婚した。子供が生まれると親子で教会へ通うようになるが、「子供のことが気になり、礼拝に集中できず」、「聖日礼拝には、主人に引っ張られて行くような状態で、神様を求める心は眠っていた」時期もあったと述べている。三人の子供たちは教会学校へ通わせ、その後長男は自ら洗礼を受けるに至った。夫も信仰に熱心で、日曜出勤の仕事に転勤した際には、水曜夜の祈祷会へ出席し続けた。
この三例は、夫婦だけでなくその親も信徒という環境にあった。だが、小林のように仕事が多忙になったり、田中のように子育てに追われたりすると、教会を離れそうだったことが述べられている。
次に老年期に受洗した二事例を見る。
下地(事例1)は子供たちが巣立った後、五九歳のときに洗礼を受けた。自分史には「昭和二十一年に十五馬力の小型船に乗って台湾の疎開先から帰る途中、三日三晩荒れ狂う大波にもまれながら九死に一生を得て無事に宮古の土を踏むことができたのも私を支えて下さった神がおられたからだと思っている」などと、受洗以前の生活についても「神の救い」として理解している記述が見られる。
間野(事例11)はクリスチャンホームに育つ配偶者と結婚したが、夫は信仰告白せずに過ごしていた。昭和四五年頃「ベ平連」運動に子供が参加し、それを説得すべく教会で牧師に悩みを相談した。だが「この世的なものにかかわらず、聖なる世界を求めよ」と直接的な解答は得られず、「原罪の意味さえわかっていない」彼女は心の平安が求められなかった。そして老年期を迎えたとき、夫婦とも病や怪我に悩んだ末に「いつとなくひかれるように」通い出した教会での、「この世で大事な問題に踏み込んで」聖書を土台に語る牧師の言葉が、次第に求道につながった。彼らを温かく迎え入れる教会の人々に、牧師を話し合いを重ねた末、平成元年三月、夫が七四歳、彼女は六○歳で受洗した。
二例とも、受洗にあたって他の家族員との衝突は見られない。ただし、その後、子供たちへ信仰を伝えたとの記述もない。
続いて(A-ロ)の三例を見よう。
まず、伊谷(事例2)の実家はクリスチャンホームで、父は教会設立に尽くしたほど熱心な信徒であった。そして地元で最も古い質屋へ嫁いだ。親族も多いその家は「複雑な家庭環境」だったため「礼拝にも出ることが出来」なかったという。その具体的な葛藤は記述されていない。教会からは離れていた時期があっても、伊谷は六人の子供を自らも通ったキリスト教会の幼稚園へ入れることで、教会とつながりを持ち続けていたという。礼拝には晩年には再び通うようになった。
次に、他の教派を巡った人々を見ていく。
細見(事例7)の自分史は、教会での「証し」を元にしているM。彼は高等小学校を出て幾つかの仕事の経験した後、京都の米屋で働き出した。そして「何となく世の中がいやになって」睡眠薬を飲んで自殺未遂をしてしまう。その後、周囲の優しさに触れ、自らの行為を反省していたときに、路傍伝道で讃美歌を歌う信徒に誘われ、初めてキリスト教会へ行った。その後、洗礼を受け、米屋を辞める。上京してホーリネス教会柏木聖書学院へ入学した。だが、昭和一七年六月にホーリネス系教会の多くの人々が一斉検挙され、大きな打撃を受けたN。
第二次大戦中、彼は海軍の指定工場の労務部長だったため、徴用免除となったが、結婚後はいろいろな苦難に遇う。長男は五歳で肺炎を患い死去。ラジオ修理業を友人たちと始めるが、利益分配でもめて別れる。歯科医療器の修理を始めるも、大企業の進出で失業。臨時雇いでビル工事に出るが、足の親指が三つに破れる大怪我。この生活苦の中で、彼はすっかり信仰を見失っていた。さらに月販会社勤務のときは、貧乏暮らしゆえ、集金を一時流用したこともあるという。これは「信仰が復活してから」返金した。彼は教会から離れていたこの時期を「砂漠の生活」と評している。
四○年ほど教会から離れていたが、離婚・再婚を経て、生活が落ち着いたところで再び教会へと足を運んだ。彼はその理由を「自分もそろそれ召される時期が近いのではないか。もしその時、自分が所属する教会もなく、仏式で葬式をされては困る」と思ったからだという。そこで、青年時代とは異なる教派だが、家から近いルーテル教会へに通い出した。その際、後妻もキリストを知り、昭和五九年四月七日に細見の転会と同時に洗礼を受けた。
これだけでは、単に葬儀のためかと誤解を受けるが、彼はさまざまな機会に他の教派の集会へも顔を出し、「証し」をしたり、故郷伝道などを試みたりしている。教会から離れていた時代を反省しつつ、信仰復活を喜び、それを他者へ伝えようとしているのである。
青木(事例10)は、二○歳代半ば頃、「子供の頃から知っている近しい縁者の一人」で「真面目で几帳面ではにかみやで少し気の小さい」既婚男性から求愛され、それが原因で愛について悩むことになった。その後、修道女の知人に会ったり、友人から聖書を贈られたり、徐々にキリスト教を知るようになる。大阪のカトリック教会に通い、「私どもも人間です。罪を犯しますよ」という神父の言葉にほっとして、洗礼を受けることを決心した。
そして受洗。さらにキリスト教信仰を持つ相手(先の既婚男性とは別)と二五年二月一○日に結婚。「夫は毎日製材工場で働き、私はせっせと洋裁の内職に精出し」て新生活を始めた。子供も生まれ、毎年イースターのときは家族で教会に行き、家庭ミサなども行い、ハンセン氏病の療養所でのボランティアも続け、安穏な家庭生活を過ごした。
その後、彼女は、所属するカトリック教会が「さまざまの不祥事」をしていたことを知り、福音を伝える糸口としは言え、パーティーを重ね、また「休暇で帰国する神父へのおみやげ」を少人数で負担するなどお金がかかり過ぎることも原因で、「信仰について、教会や聖職者について、何となく違和感がくすぶるように」なる。そして、善悪の問題に悩み、友人の所属するセブンスデー・アドベンチスト教会へ通うようになる。この教えには共感したが、新たな洗礼は拒否。その後、自問自答の中で「善と悪とは、教会が教えるように別々のことではな」く「切目のない、輪のようなもの、一枚の裏表のような、密着不離のものにちがいない」と確信する。
細見は戦争とその後の生活苦で信仰を見失ったが、再び信仰に目覚めた。青木はその遍歴の末、堅固な信仰を確立した。
(4)教会を離れた「信徒」
この節では教会を離れた事例、(B)及び(C)を検討する。まず、(B-ハ)の例を紹介する。
西川(事例9)は、昭和二七年、四人の子供と妻を抱えた三五歳のとき結核に侵され、入院中にキリスト教と出会う。ラジオで日本ルーテルセンターの放送を聴いたとき「なぜか心引かれるものがあり、そのままじっと聞き入」り、「希望者には聖書通信講座と新約聖書を無料で送る」と聞いて、早速申し込んだ。そして、贈呈された聖書を読み始めた。さらに隣室の学生から勧められて内村鑑三伝を読み、深い感銘を受けると、「いつのまにか神に祈るようにな」り、「朝の起床前と夜の就寝前にはベッドに横たえたまま祈った」。
退院後も聖書を読み続け、「長いあいだ私の中に眠っていた罪が、聖書を通し、神のみ霊によって目覚めさせられた」。八月にプロテスタント教会へ初めて行くが「初めて見る教会の異教的雰囲気にはなじめなかった」という。
だが、亀谷凌雲著『念仏より基督』により、十字架の贖いを理解し、同月八日「心の中にわだかまっていた罪のかたまりが、一挙に氷解していく思い」を感ずる。そして、一一月一一日、牧師の勧めで洗礼を受ける。同時に、それまで家にあった仏壇を仏具屋に売却した。
二九年二月の日記には「わたしはもうキリストなしに生きることはできない」と記すが、後に「相変わらず儀礼的な説教や儀式ばかりで、信仰上益するものは何もなく、教会に対する失望は増すばかり」となり、四月以降、教会を離れた。
彼は謄写印刷の筆耕技術を学び、孔版と印刷技術を取得するが、仕事はなかなか受注できず、ついに自宅を売却せざるを得なくなる。体調も全快せず、「仕事がない時はたいてい聖書の勉強や読書をしながら待機して」過ごした。
だが、子供たちは「思いがけない大量の印刷注文によって必要なだけの金が手にはいり、入学金納入の締切りまぎわに無事に手続きを済ませる」など、なんとか高校や大学へ進学させた。やがて「謄写印刷の仕事も次第にタイプ印刷に取って代わられ」、五○歳にしてついに印刷業を諦め、「生命保険など不得手な外交販売の仕事」をすることになった。
四二年四月頃、五一歳のときに、大阪聖研という無教会の聖書研究会に通い出すO。だが、そこでの「聖書講義」は形式的で、「みたまによって燃やされた講義や信仰体験」が聞けず、さらに「余りにもさっぱりしていて冷たい」という雰囲気に不満と失望の情を抱き、一年余りで去った。自分自身は無教会であり「十字架の贖罪信仰」と「自由と独立の信仰」を持っているという。
息子たちがそれぞれ就職し、四五年には彼も書籍販売会社に就職したため、ようやく経済的に安定する。翌年には分譲マンションを購入。五二年の六一歳のときに次男の協力を得て、謄写印刷で一二頁程度の月刊通信「燈火」を発行することになった。この文書伝道は「平信徒伝道の一つの試金石」だと自ら位置づけ、八○歳を越した現在も、次男と共に続けている。
(B-ニ)として、中谷(事例4)を見ておく。
中谷は尋常小学校を卒業後、岡山県津山の製糸工場に勤めた。そこは「聖書による御言葉を軸に就労している工場」だった。「入社の日から六か月は工員養成期間で製糸の技術の他に、聖書の講義が毎日」あった。「朝の祈りと讃美歌で工場の機械が回り、終業後の感謝の祈りと讃美歌で工場から解放され」る生活を送り、彼女はキリスト教を知った。だが、婚家が仏教徒だったためそれに従い、教会生活を送ることなく過ごした。
「はじめに」で彼女は、「仏教の国に在って、聖書を信じ、キリストを師と崇めながら、教会にもゆかず人にも伝えず、子に教えるでもなく、自分なりの解釈によって今日まで過ごしたことを深く悔いております」と述べている。
さらに「終章」では、「この世に生を受けて七十七年、仏教社会に在ってキリスト教を信じ、御教へに畏みながら教会にも行かず、ひたすら自分の神として、子にも人にも伝えなかった罪は大きいと思います。信仰が薄きが故に口に表し得なかったものと反省しきりです」。そして「あとがき」には「厳然と神は存在します。子よ、孫よ、神の存在を認め、御言葉を静かにきいて、神の分身である己を知って、報恩の生涯を築いてくださるよう老婆は節に祈ります」と加えている。
中谷はこれまで家族に伝えてこなかった自らの信仰を、自分史のなかに書き綴り、自分史全体の約一○分の一の分量を割いていた。これは大変興味深い。だが、その思いの強さは理解できるものの、信仰を守っていくなかでどのような葛藤があったのかは記述されていない。現在は病床にあり、口述を得られないのが残念である。
ここで、日本基督教団S教会の元牧師夫人(大正一三年生、本稿の類型ではA-イに該当)の口述生活史の一部を紹介する。彼女は、自らが通っていたキリスト教主義学校(現短大)の同窓会に出席したとき、その大半の友人が、卒業後は信仰生活を続けていなかったことを知った。信仰を守っていたのは、自らと同様に牧師の妻だった者と、教会で長老を務める夫を持つ者だけだった。そこで彼女は筆者に、「(自らのキリスト教)信仰は(婚家が)牧師の家庭だったから続いたのだろう」と述べた。牧師の妻として五○年もの間教会生活を送ってきた彼女は、とくに女性の教会員の悩み事の相談を受けてきた。それもあってこのような感想が述べられたのである。
キリスト教と伝統的宗教習俗との衝突は、その渡来以降、ずっと続いている。筆者の調査では、家族で一人だけの信徒でも「個人の信仰」として教会へ深く関与している者はいる[川又
一九九四]。だが、中谷のように「家の宗教」ではないために教会を去った人々は少なからずいたのである。
(C)として武石(事例13)を見よう。彼は「中高生のときに教会へ通ったが、転居と進学で疎遠になった」。その後、結婚式は洗礼を受けた教会で行ったが、教会との関係はそれだけであり、事実上、キリスト教信仰を棄てたことになる。彼の受洗は昭和二二年であり、第二次大戦後のキリスト教ブームの時期だった。二五年頃まで続いたブームの後、熱が冷めて教会を去る若者は多かった。武石はまさにそんな一人である。
そこで、武石のように昭和二二年に受洗した信徒(昭和三年生、本稿の類型ではA-ロに該当。日本基督教団S教会所属)の口述生活史を紹介しよう。その信徒も武石と同じく十代後半で受洗した。彼はその後も、聖書やキリスト教関連の雑誌などを読んではいたが、教会内の人間関係や「仕事による多忙」などの理由で教会から離れて生活していた。
この信徒の場合は後年、配偶者の死去を契機に元の教会へ戻ってきた。ただし、彼は新しく赴任してきた牧師との個人的なつながりがあった。その牧師は、彼が教会を離れた後に赴任した。牧師は彼の金物業という職業を活かした教会の仕事を依頼したり、度々、彼の家を訪問したりして、交際を続けていた。このような、牧師との個人的な関係なしでは、教会復帰はなかったと彼も述べている。
牧師や神父は、教会生活を続ける信徒たちにとって大きな存在である。牧師の交替によって信徒数が大きく増減した教会も少なからずある。
青年時代に受洗し、その後、仕事が忙しくなるにつれ教会から離れた武石の父は、晩年同じ教派の教会へ戻ったと武石の自分史に記述されていた。そこで筆者は武石に、現在の状況を問うたところ、「今は無神論者」であり「人と人との結びつきがないとなかなか信仰を守るのは難しい」と答えていた。
(5)小括
ここまでの議論を整理しておこう。
信徒たちの自分史を、「教会生活を続けた」「教会を離れて信仰を持っていた」「信仰を棄てた」という三つに分類し、それぞれを見てきた。
教会を離れた理由には、結婚による環境の変化-具体的には仏教の婚家で生活していたためという場合(事例4)、自らの考えと通った教会・家庭集会の雰囲気や儀礼のあり方が違っていたという場合(事例9)、戦後のブーム期に受洗した青年が進学・就職など加齢していくうち次第に離れていったという場合(事例13)、が観察された。
また、教会生活を続けてきたが、離れる可能性もあった例も見られた(事例5・14)。子供をキリスト教会の幼稚園に通わせることなどによるつながりも記述されていた(事例2・12・14)。
さらに、複数の教会へ通った経験を持つ信徒の記述からは、信仰に対する迷いや教義への疑問、教会のあり方ばかりでなく、教会内外の人間関係が「教会」という信仰共同体での生活を左右することも判明した(事例10)。
教会生活を順調に過ごした信徒が自分史を綴るときに、その信仰を記述するのはめずらしくはない。だが、教会を離れた「信徒」たちも自らの信仰を述べていたことに注目したい。分量は少なく、内容も、受洗の事実やその前後の様子くらいしか書かれていないものもある。だが、信仰を棄てた武石ですら、「幼児のごとき者、天国に入る」と記述しており、キリスト教信仰の影響がうかがえるのである。
4 結語
キリスト教について言及した自分史を事例に、「信徒周辺」の生活、さらに、信徒自身が自らの人生において信仰をどのように位置づけているのかを考察してきた。その中で、生活全体がキリストと共にあることが表現されるもの、青年期の思い出として記されるもの、誰にも伝えずただ一人で信仰を持っていたと綴ったもの、教会を巡りつつ信仰を深めていくものなど、さまざまな信仰生活の諸相が観察された。
そのなかで、教会に通わずともキリスト教信仰を持っているという自覚のある「信徒」を見出せたことは、この自分史という資料をの特徴によると言えるのではないだろうか。
本稿の対象には、自分史を書く高齢者という年齢の限定以外にも、先述したように、教派の偏りが見られる。それによって、これまでの考察に大きな修正を加えなければならないかどうかは、今後、他教派の信徒たちと比較することにより判明するだろう。ただ、少なくとも、カトリックと日本基督教団との信徒において大きな差異は認められない。
自分史の記述だけの考察には自ずと限界がある。そのため、筆者は今後、執筆者から口述生活史を得るなど「脇固め」[水野
一九八六:一六二]をして問題追究へ向かいたい。
今まで示してきたように、この基礎的考察は「キリスト教受容」研究の新しい方向性を示したものである。だが、まだ出発したばかりでもある。今後も自分史を収集し、さまざまな対象や方法により議論を積み重ねていきたい。
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註
@質問紙調査による優れた研究[金児 一九九七]は少なくない。また、一教団への共同調査[島薗
一九九二]やさまざまな対象への共同調査[宗教社会学の会
一九九五]は極めて興味深い結果を示した。だが、これらの調査でも中心は、教団指導者や熱心な信徒たちであった。
A日本では八○年代後半から自分史を著し出版する人々が急増する。これは、教育機会の拡大や経済・時間的な余裕、第二次大戦経験者世代の高齢化などのさまざまな社会的状況が背景にある。より直接的には、自分史作成のマニュアルノートの普及、自分史書き方教室の開催、自費出版を扱う印刷会社の増加、自分史の閲覧施設や閲覧システムの運営など、いわゆる「物語産業」の発展や[小林
一九九七]、ワープロなど机上印刷(desk top
publishing)の普及によるだろう。
B近年のライフヒストリーを用いた研究は枚挙に暇がない。
その利用の積極的理由として「異文化理解及び仮説索出
・類型構成において非常に有効」[谷 一九九六:一四]と
いう指摘には、筆者も同意する。一方、ライフヒストリー研究において分析視角の議論が欠如していると指摘する寺田[一九九八]は、自らの研究では二人の布教者の口述生活史を「回心物語」として読み解こうとした。
C西山[一九七六]は妙智会教団を対象に、入会した信徒が入信していく過程を信仰の深化過程と見なした上で、支部の指導者たちへ詳細な聴取りを行った。その結果、教団を離れた経験なども明らかになり、「ねぼけ」たり
「目覚め」たりしながら信仰が深まっていく螺旋的入信
過程を西山は提示した。筆者はさらにその円環運動から
外れた層をも調査対象に含めたい。本稿の図2はこの螺旋的入信過程の模式図を参考にした。
D武田[一九六七]は思想史研究の立場から、自伝的資料を駆使し、著名なキリスト教信徒を、棄教して背教者となった人物を含めて考察した。本稿は「現代の一般信徒」が対象だが、「信徒周辺」という着想はこの研究からも得ている。
E本稿で伝記は、対象者に関する記録などから他人が記述した個人史、つまり、対象者と執筆者が面接などを行わない場合を指す。口述生活史は逆に、面接などの対面状況下で得られた口述資料を中心に記述した個人史を指す。また、口述筆記による自伝や句集・詩集の形式の自伝・自分史があることは筆者も承知している。だが本稿では、自分史を自伝・口述生活史と区分することを主眼としたため、あえて単純化した。自伝的資料に関する複雑な問題は、稿を改めて資料論として論じたい。
F本稿では、対象の立場で自伝と自分史を区分したが、こ
れまでの口述生活史の対象者は、無条件に無名人だとい
うわけでもない。移民・下層民・在日韓国人・同性愛者
など、社会学のなかでは「境界人」に分類される人々が
対象となることが多かった。ただし、世間には無名な人々を新しい研究対象に取り上げたとも言える。
Gここで概観したのは、松本[一九六五;一九七二]による明治の知識人綱島梁川・高山樗牛などの研究、島薗[一九八○]による金光教教祖赤沢文治の研究、鶴岡[一九八八;一九八九]による女性神秘家聖テレジアの研究、中村[一九九二]による円応教教祖深田千代子の研究などである。
Hこの基本構造は「自伝契約」と呼ばれている[ルジュンヌ
一九九五:一○]。
I対象者自身の編集作業を重視している研究として、矢島
[一九九七]を参照されたい。
Jこの研究に協力していただいた、東京の「自費出版図書館」(品川区、伊藤晋館長)と大阪の「ブックギャラリ
ー上六」(天王寺区、福山琢磨代表)には記して謝したい。両者共、様々なジャンルの自費出版図書を所蔵して
いる。筆者はその中から七○○冊、九○○冊の自分史を読み、一四冊を選択した(各々四冊、一○冊)。伝記や追悼記(故人の想い出を複数の生存者が綴った記録)は本稿の主旨に合わないので除外した。キリスト教以外では、天理教・生長の家・創価学会など新宗教信徒の自分 史も数冊ずつあった。それらと比較すると、キリスト教信徒の自分史はかなり多いということになる。
今回の筆者の方法では、受洗した後に教会を離れても、自分史にそのことを記述しなければ「離れた」とは見なされない。さらに、キリスト教信仰を自覚し記述している「信徒」たちしかとらえることはできない。このようにこの方法には欠点も多い。だが、もともと、自分史自体どのくらい発行されているかを正確に把握するすべはない。そこで、さまざまな角度の方法(triangulation)[Denzin
1989:234-247]を積み重ねることを前提に、次善の策として、今回のような方法をとったのである。
K小林[一九九七]は、一九八○年代に出版された自分史を
ランダムに六○冊選び、執筆者の背景を調べた。すると、執筆動機は、過去を振り返り、自らの人生を残したいと願い、子や孫に伝えたいという人が多いという。出版契機は、古希・喜寿などの年齢の節目のときが多い。本稿の対象も概ねこれに当てはまる。
Lこの区分では、躓いた経験を書かなかった場合はそれがなかったものとして(A-イ)に区分される。だが、執筆者の判断で書かなかったということを否定的にとらえるのではなく、逆に「躓き」を書いたということはその「躓き」が信徒にとって大きな意味を持つと判断して、書かれた「躓き」に重心をおいて考察している。
M「証し」とは、自らの信仰生活を信徒たちの前で発表することを指す。新宗教教団でも「体験談発表」ということでお互いに語り合い、信仰を深めようとしている。
N戦時中のキリスト教弾圧の研究書は多く出版されているが、まだそこでも記述されていない個々人の歴史の発掘という点でも自分史は注目に値する。本稿では、信徒たちの戦争体験を全面的に議論することはできなかった。だが、全ての事例で戦争体験が綴られており、この検討は今後の課題としたい。
O無教会とは、内村鑑三が主唱した平信徒たちの聖書研究会を中心としたグループである。外国の教えや制度をそのまま踏襲するだけの教会や、教会に頼っている信徒たちを教会主義と批判する。すでに無教会に関する優れた調査[カルダローラ
一九七八]があるが、そこでも聖書研究会を離脱した者などは考察の枠外である。
文献
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印刷・自費出版センター(上)
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