ライフヒストリーの資料論
−口述生活史と自分史の比較検討を中心に−


1.本稿の射程
 近年の日本のライフヒストリー研究の隆盛は、例の列挙に暇がないほどである(1)。ただし、幾種類もある自伝的資料のなかで「口述生活史=オーラルライフヒストリー」を選択しているにもかかわらず、その選択の積極的な理由を述べることなく「ライフヒストリー」「生活史」と表記しているものも少なくない。また、その資料を扱うにあたっての資料論的検討も不問に付しているものもある。だが、ライフヒストリー研究は「口述生活史」だけだと考えるのは早計であろう。
 そもそも、ライフヒストリー研究の嚆矢とされるトーマスとズナニエッキの『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』における中心的な資料は手紙と自伝だった。これ以外にも、日記や手記、写真、メモなどは、ある個人の歴史を記録した資料、つまり「個人的記録(personal documents)」と呼ばれている。そのなかで生活に関連した部分が強調されているときは「生活記録(life documents)」、ある個人の人生のある程度の幅を持った時間で記述された場合は「自伝的資料(biographical documents)」などと呼ばれることもある。本稿では以下、筆者の関心に合わせて「自伝的資料」と表記する。
 これら、自伝的資料を扱った研究は、日本でも多く著されている。日記研究(石川 1981,中野 1989;1992)や手記研究(森岡 1993;1996)などの事例はすぐに思い起こされる。
 たしかに、ライフヒストリー研究が隆盛していく口火を切った中野卓は「口述生活史」の意義を強調しており、筆者も含めて多くの研究者が、口述者と研究者が対面的相互作用の中で生成していく「口述生活史」という資料の重要性を強く認識しているのも事実である(川又 1996)。さらにライフヒストリー研究を進めている研究者たちのなかで、「口述生活史」を社会調査論の立場から議論している者が多いことは、質的研究への強い関心に還元できるだろう(有末 1996,他)。もちろん口述生活史は、聞き取った口述者の個人史を研究者が編集し「個人のエスノグラフィー」として提示し、個人の人生に関わる社会を見ていこうとする方法論に立脚している(佐藤 1995)。
 だが、ライフヒストリー研究の資料には、口述生活史のみならず、あらゆる自伝的資料が用いられる可能性を持っているし、利用されるべきなのである。
 筆者はとくに、日本では1980年代後半から多く出版されるようになった自分史が、口述生活史と同様な価値を持つ資料であると思っている。そこで本稿では、その両者を比較しながら、ライフヒストリーの資料論を論じていくことにする。
 もちろん、周知の通り、プラマーやデンジンによってすでに、興味深い資料論も提出されている(Plummmer 1983;Denzin 1989)。プラマーは、自伝的資料全般について教科書的にその扱い方を述べた上で、口述生活史調査の方法を記述している。デンジンは自伝的資料をみな「伝記」と見なした上で、その注意点などに触れている。さらに、自分史と口述生活史に関しては、すでに小林多寿子が、それぞれを能動的・受動的という性格で比較し、簡潔にまとめている(小林 1995)。本稿では、それらを踏まえながら、そこで議論されなかった点に注目しつつ、自らの課題を追究したい。
 そもそも本稿の第一義的な目的は、「本人が調査者の手を借りずに自分で書いた生活史(=自伝・自分史)は、調査者の主観が混じっていない分口述生活史よりも純度の高いデータなのだろうか。それとも調査者の質問があらかじめ封じられてしまっているという意味で口述生活史よりも分析レベルの劣るデータなのだろうか」という大久保孝治の問いかけ(大久保 1996:410)への回答を示すことである。
 以前から大久保自身はこの二つの資料の差異を論じていた(大久保 1988)。だが、そのときは、口述生活史の比較対象として「特殊な人々の人生の記録」である「自伝」を挙げたため、大きく議論を展開させえなかったように思える(2)。そこで、本稿ではまず、自分史・自伝・口述生活史などの差異を示し、その特徴を検討することから始めたい。
 ライフヒストリー研究の代表的論客である桜井厚は、すでに10年以上も前に自分史と口述生活史の資料的意味の違いを指摘していた一人である。だが桜井は「この両者の違いはさしあたり問題ではない」と述べるに止まっていた(桜井 1986:73)。実際は、桜井の研究を後づけていくと、その後いろいろな機会に、これらの概念の整理をしている(桜井 1990,他)。筆者は、ライフヒストリー研究が積み重ねられている現在こそ、両者の差異を議論しておくべきだと思い、本稿を著すに至ったのである。
 そしてこの議論をもとに、自らの研究を整理してみようと思う。

2.用語の整理
 まず、用語の整理を行う。本稿で扱う「自伝的資料」は「ある個人の人生を綴った記録」だと言えよう。これには、一般に「自分史・自伝・口述生活史・伝記」などが含まれる(3)。
 本稿ではそれらを「執筆主体」と「対象の立場」という二点に注目して、以下の通りに分類した。 執筆主体が「対象者本人」で、無名な場合が自分史であり、著名な場合が自伝である。この差異は、基本的には出版の形式が自費出版か商業出版かで判断できる(4)。
 「対象者本人が語り、それを聞き取る他人が執筆する」場合は口述生活史である。本人と他人との対面的相互作用に基づくが、本稿では、他人が執筆主体であると見なしている。また、口述生活史を用いた研究の対象は、後述するように、無名でしかも取りあげるに有意義な何らかの特徴ある人々である。そして、他人が執筆主体で、著名人の生涯を客観的資料などをもとに再構成したものは伝記に区分される。
 まず、自伝と自分史の差異について論じていこう。
 本稿ではこの両者を「対象者の立場」で区分した。そもそも「自分史」という語彙を提唱した色川大吉自身、「ただの庶民が、自分でどうしても書き残しておきたいと願った経験を、強い主体的な意欲によって記述した自分の歴史」と定義づけている(色川 1993:199)。つまり自分史概念自体が、その執筆主体たる対象の立場により規定されていたのである。多くの論者がこれに追随しており(小林 1997;田上 1997)、本稿でも、自伝が「大衆化」したものを自分史としておく。
 逆に考えれば、対象の立場以外の部分では、自分史と自伝は共通点が多いということになる。これを、ルジュンヌに従って述べるならば、その本に記載された著者名とその本の主人公とその本の執筆者、つまり、語り手と主人公と執筆者が同一という基本的構造が同じだと言える(Lejeune 1971)。これをルジュンヌは「自伝契約」と呼ぶ(5)。その共通部分についてもう少し検討しておこう。
 自伝も自分史も、研究者の媒介なしに、執筆者自身が自らの歴史を振り返り、それを自らの言葉で綴り、公表している(6)。研究者の媒介がないということは、言い換えると、研究者にとっては間接的な資料だということになる。つまり、自伝・自分史は、数ある経験を執筆者自身が選別して表現した資料である。そのため「書き手が口述者自身であることによって、自分で史料を選択し、聴き手(読み手)にとって有意味なことを無視したり、自然的態度の現れる機会が少ない」という欠点も指摘されている(桜井 1986:86)。それではこの批判に対して、この資料を扱う研究者たちはどのように応じてきたのだろうか。
 自分史研究については後述するが、自伝研究を概観すると次のようなことが言える。すなわち、対象者の記述する資料を基礎に、それ以外のさまざまな傍証となる資料を揃えて研究を進めているのである。もともと文学の一分野として自伝研究が進められてきたという経緯もあるゆえ、その方法も厳密な文献批判が前提となっている(7)。自伝自体、本稿の定義に従えば、著名な人物が綴ったものである。著名人の場合、その人物に関して自伝以外にもさまざまな文書資料があり得るだろう。研究者たちはそれらを収集し比較しながら研究を進めていく。自伝を研究する者たちは、研究対象に関して、自伝以外の豊富な文書資料を用いて分析していたのである。
 続いて、次節以降で口述生活史と自分史を順次検討していく。

3.口述生活史−資料の扱い方と方法論的課題
 前節で示した通り、口述生活史は対象者たる口述者と研究者との対面的相互作用によって得られた口述資料をもとにした個人史である。
 口述資料を文章化する前に、研究者は角度を変えた質問で口述内容を確認したり、他の資料と比較したり、対象者以外の人物を面接調査したりしてクロスチェックを行う。この作業は、対象者の「語り」における明かな事実誤認などを確認したり、さらなる情報を得るために行われる。こうして得られた対象者の「語り」は、研究者によって加筆・削除・修正が施され、注釈を加えたり時系列の配列などの編集作業が行われ、文章化されて口述生活史となる。その際、対象者自身が編集作業に加わることもある。
 これまでの口述生活史の対象は、無条件に無名人だったわけでもない。多くの研究報告を見てみると、移民・下層民・在日韓国人・同性愛者など、社会学のなかでは「境界人」に分類される人々が対象となることが多かったことが分かる。これらの研究対象は、人口学的に把握されていないものばかりである。そのような対象を分析するときに、ランダム・サンプリングで抽出した対象へ質問紙を用いる量的調査では、対象設定の段階から厳密性を欠くゆえに有意味とは言えない。
 そこで、このような対象については、実態をつかみ、全体像を理解することが最優先される。つまり、仮説検証型ではなく問題索出型の研究が要請されるのである。そのために個別事例を丹念にあたることが重視される。そこで口述生活史という方法が採用されたのであった。この方法の有効性を議論した大山信義は、「反省理論」という語を用いて、対象者側の主体性に重きを置いている(大山 1988)。
 口述生活史の問題点としてよく指摘されていたのは、対象者が「自らの個人史を語れる人」に限られるという点である。どんなに興味深い対象であっても、自らの人生を他人に語れないことには研究にならないということである。中野の「奥のオバァサン」に代表されるような「よき語り手」に恵まれることがいい研究の前提条件と理解されてきた節がある(8)。もちろん、語ることと書くことは別の行為だが、現在では自らの個人史を語る人々の存在は、自分史の普及に見られるように、決して珍しいことではなくなったことも確認しておかねばなるまい。
 もう一つ未解決の問題としては、分析の欠如が挙げられる。それは、これまでの研究者が、ある個人のライフヒストリーという「作品」を提示することに意義を見出してきたことや、対象の発見を重視していたことがその理由となる。先に述べたように、対象の特性によって、量的にとらえにくい個別データを提示するときに、これまでは、研究者の分析・解釈が含まれた「作品」として提示されることが多かった。面接調査を行った研究者自らが主体的に作成して公表されたテキストが口述生活史なのである。最近はその「作品化」過程についての分析もなされている(大出 1999)。
 いわば研究者が援助して作り上げた個人史を「作品」として提示することが口述生活史の一つの主流をなしてきた。その場合、ある一人に対する聞き取りで一冊の単行本にするものもあれば(中野 1977;前山 1986)、十名程度の聞き取りを集約して単行本にまとめるものもあった(奥村・桜井 1991)。
 口述生活史を扱う場合、個々のヒストリーを比較するよりも、そのユニークな個人史に注目が集まることが多い。田口純一はこれに関して、「ユニークな悲しみとか苦しみであるからこそ、他者は知りたい」と述べている(田口 1997)。個人へアプローチする方法の一つとして、個性豊かな個々人への注目が、この研究を支えてきたのだと言えよう。

4.自分史研究−二つのアプローチ
 前述の通り、自分史は一般の人々が書いた個人史である。著名人とは言い難い人々への眼差しが、自分史研究の主要な点であり、これは口述生活史と共通している。一方、研究者のパースペクティブが「編著」作品の中に含まれている口述生活史と比べると、自分史は執筆者の考えが直に反映した資料と言える。だが、執筆者が思いのまま綴ったと単純には言えない。ある程度の制約も見られる。小林は自費出版の編集者や自分史教室の講師などを「第二の生産者」と名付けた(小林 1997:210)。これら「第二の生産者」の影響は、近年刊行される自分史が「本らしくなっている」点にも表れている(小林 1997:98)。
 自分史を資料とした研究は、管見では1980年代から徐々に見られるようになった。それは、自分史の刊行の増加と重なっている(9)。また、それらを読むと、異なる二つアプローチが見い出せる。
 一つは、多数の自分史を収集し、そこに描かれる生活歴を分類し分析する方法であり、もう一つは、自分史と口述生活史を併用する方法である。
 まず、生活歴を中心に考察する方法を見ておこう。
 山田典子は、男性20名の自分史を資料に、ライフコース論の応用として法則・傾向を探った。その際、彼らのライフ・イベントが、それぞれにどのような影響を与えているかを、生涯発達的視点から考察した(山田 1992)。
 この研究は、自分史に著された経歴の部分を量的に分析する試みであった。だがこれでは、自分史を執筆した個々人の豊かな表現はすくい取ることができない。そこで、個々人の個性を意識した研究が提案された。
 「私の転機」という原稿用紙4枚程度の短い自分史を分析した大久保は、241名の事例からさまざまな転機を「出会い・事件との遭遇・役割移行にともなう出来事の経験・身辺上の異変の経験」の四つに分類した。その上で、転機の過程について事例の解読を行いつつ、転機のメカニズムを考察した(10)。その際、年齢や時代との関連を探るために、大久保は、執筆者の生年を5年ごとのライフコース別に揃えた。その結果、10歳代後半から20歳代、30歳代後半から40歳代までの二つの時期に転機が多かったこと、さらに第二次大戦中に転機を経験したコーホートは1920年から24年生まれであることなどを明らかにした(大久保 1989)。この提案も、結局はある程度の数量を支えにした研究である。
 一方の、口述生活史を併用する方法は、自分史執筆者への面接などを行い、口述と自分史との語りを比較しながら考察していく方法である。
 この方法を採用した小林は、刊行された自分史からこぼれ落ちた書き手の意図や本人にとって自分史を著した意義、刊行後に自らへ与える影響などを、本人の語る言葉から探っていくために、自分史を書いた人々へ面接を試みた(小林 1997:15)。そして、その口述の語りを集め、自分史に表れる「書き言葉」と小林との面接のときに表れる「話し言葉」の人生を重ね合わせることを目指した。その結果、小林は執筆者たちの口述の語りが、自分史に表現されている「書き言葉の人生」に強く支配されていることを知ったという(小林 1997:226)。
 もう一度確認しておこう。自分史研究の一つの方法は、理論的背景をもとに、一つ一つの自分史から個人の生活歴を抜き出して量的に扱う方法である。個人の経歴や時代背景、何らかの転機などを見ていく場合、自分史は価値ある資料となるだろう。だが、生活歴のみを扱うのでは、質問紙調査での質問紙のフェースシートの代替措置として自分史を利用するに過ぎず、執筆者たちの経歴以外の特性はあまり考慮されない。そこで、その欠点を補充するような形で、とくに生活過程の考察するために、大久保のように、語り手の文章を引用しながら、彼らの思考を追っていく形で分析を試みる方法があらわれたのである。
 もう一つは口述生活史と併用する方法である。小林が行ったように自分史執筆者との面接を行うことで、自分史と口述生活史という二つの資料を軸に何らかの考察が加えられる。その作業の一つは口述生活史のときに議論した「信頼性」のクロスチェック機能と重なる。 いずれにしても、この二つの方法は、自伝や口述生活史のようにたった一人の個人を分析するものではなかった。では、たった一人の自分史だけを扱う研究は今後も困難なのだろうか。そうすると、口述生活史と自分史とでは前者が優越する資料なのだろうか。
 これに対して、プラマーの「ストーリーの社会学」を重視している小林は「物語論」の導入を提案している(小林 1997)。まだその成果は見られないが、筆者を含めて自分史を対象とした研究を志す者にとって一つの目標となるだろう。

5.大久保の問いに対する回答
 今までの議論をもとに、大久保の問いを考えてみよう。
 大久保は自分史を「純度が高い」資料だと述べていた。研究者の視点が入っていない分、対象者の視点に混じり気はないかもしれない。だが「第二の生産者」の存在を考えれば、対象者が全く自由に描かれたものだとも言えまい。また、逆に考えれば、対象者の主観に制約された個人史とも言えるだろう。世に出ている幾つもの自分史を読めば、それらの内容や表現があまりにも多種多様であることに気付くだろう。自らの家族や生年など、読者にとってその主人公を知る手がかりとなるような情報を一切省略して、観念的なことを書き連ねたものもある。内容の濃淡も一つに括れないほどである。それらすべてを「純度が高い」ものとして肯定的に見ることはできない。
 また、大久保は、口述生活史を研究者が関与している点に注目し「分析レベル」が高いと認識していた。だが、ここでの大久保は、口述生活史を一つの資料として見ている。これまでの口述生活史による研究の多くが「作品」として提示されてきたことを踏まえれば、こちらも必ずしも首肯しがたい前提である。「作品」に分析が入って示されていると言えるかもしれないが、それならば、「分析」が入り込んでいる資料ということになる。
 したがって、基本的前提について大久保の問いに疑問を感じてしまう以上、我々は、自伝・自分史と口述生活史が資料的にどちらが優位だと直接答えることはできない。そこで、今までの議論を要約することで自伝的資料に関する筆者の見解を示したい。
 自伝研究においては、一冊の自伝だけではなく、その一人に関するさまざまな文書資料が活用され、より多くの情報によって分析されている。また、自分史の場合には、ある一人を分析するのではなく、執筆者の生活歴に注目して量的に分析する方法と、口述での語りを得ることで、その人物の人生を重ね合わせる方法が用いられている。口述生活史による研究も、「作品」として提示する以外の方向性が模索されている。それぞれの方法による研究が、さまざまに積み重ねられているのが現況である。
 そして、ここで筆者が言えることは、自分史を、面接の際に録音されたテープではなく、口述生活史として文章化されたものと単純比較するならば、自分史を資料として扱う研究者には、自分史を収集して読むだけではなく、まだすべきことがあるということである。
 研究者が対象者から口述を得ている段階と、研究者が自分史を読む段階は、調査においては概ね同じ段階と言えるだろう。口述生活史による研究では、その後、文章化という作業を経て初めて、我々が通常目にする「口述生活史」という「作品」になるのである。それと比べるならば、自分史を収集して読んだ段階では、まだ研究の第一歩に過ぎない。自分史を研究する場合、その後のさまざまな切り口での分析が要請されているのである。
 個人的記録、特に自伝的資料全体についてはこれまでも述べられてきたように、当然、資料批判はなされるべきであり、同時にその資料によって研究者は何を議論するのか、何を見ていこうとするのかこそが問われる。自らの研究目的に適した資料の選択が行われ、研究が進められていく。すべての資料に長短がある。周知の通り、その資料を用いる研究者が、どのような目的で、どのような方法で使用していくのかこそが問題なのである。

6.結び
 本稿を結ぶにあたって、筆者の現在までの試みや研究のアイディアを述べつつ、資料の長短について議論しておきたい。本来ならば、前節の最後に述べた、研究方法と研究対象に関する議論で得られたことを自らの研究によって示さねばなるまい。だが、本稿はあくまでも資料論に紙面を割いた議論を展開しており、その結論部分の補足の意味としてこの節を設けた。
 筆者は、キリスト教信仰を持つ自分史執筆者たちを、受洗経験の有無、教会離脱経験の有無などの観点による信仰の経歴別に分類した。そして、分類したものを、個々の自分史からの記述を生かしながら説明した。この方法で、これまでの宗教研究でとらえることのなかった<信徒周辺>の信仰生活の一端を明らかにした(川又 1998)。これは、先述の方法では大久保のものに近い。自分史を執筆するときのように自己の人生を反省的に考える機会を得ることで、それまで日常生活で語ることのなかった「思い」を描くに至ることもある。筆者の読んだ自分史には、キリスト教信仰を持っていたが、婚家が仏教の家だったため、ずっと教会に通わなかった者のものもある。その執筆者は自らの信仰をずっと家族にも伝えずにいたことを反省し、そのことを伝えることが自分史執筆の主たる動機になったと書かれていたのであった。研究者の問いかけによって引き出された資料ではなく、対象者自らが提示した資料という点を、自分史研究の大きな利点として生かしていきたい。
 筆者はその後、自分史を散骨などの近年注目されつつある葬法と比較しつつ、高齢者たちの新しい自己表現の方法として同じ位相にあると論じた(川又 1999)。また一方では、「信仰」に関する自分史をさらに収集し読み進めている。そして<信徒周辺>という概念で示す、教会などに通わずとも、キリスト教信仰を持っているという自覚のある人々の生活を読み取ろうとしている。その際、自分史執筆者たちに会って、口述生活史を得ることも試みた。今後は小林のような「重ね合わせ」も行いたいと思う。
 近年、事例研究の方法論に関するテキストが何冊も刊行されている(Emerson 1995,他)。ライフヒストリーを用いた研究をはじめ、ますます事例研究が重視されている。
 「ライフヒストリーの資料論」を掲げた本稿は、結局、メモ・写真・ビデオなどを含めた全面的な資料論には至っていない。だが、それは次稿以降の課題としたい。そして、筆者は今後もさまざまなライフヒストリー資料を扱い、「個人」をフィールドにした研究を継続するとともに、本稿で述べてきたような方法論も意識し続けていくつもりである。

[註]
(1)1981年の日本社会学会大会でライフヒストリーに関する部会が構成されたことを契機 に、同年11月発足した生活史研究会が、以降99年3月現在まで、年4回の例会を開催し てすでに69回を迎えた。例会では毎回30名ほどの参加者を集めている。その中心的メン バーは『ライフヒストリーの社会学』(中野卓・桜井厚編,弘文堂,1995年)を著した。 近年では、その後の世代の研究者たちによる修士論文や博士論文の発表も多い。この事 実からもライフヒストリー研究の定着と拡大がうかがえるだろう。
(2)大久保はすでにこのとき、彼自身が区別した自伝と自分史は、自分史を執筆する人々 が多く現れるにつれて意味をなさなくなると、予見していた(大久保 1988:167)。
(3)自伝的資料は、日記・手紙・写真・ビデオなどさまざまなものがある。本稿ではそれ らすべて扱うことができなかった。その一例として、手記を扱った森岡清美の研究を参 照しておこう。森岡は自らの戦没者たちの手記(遺書)研究において、研究資料としての 欠陥を補うために「重ね焼き法」を用いた(森岡 1993;1996)。森岡は、手記の書き手を 世代別経歴別にコントロールしてマクロレベルで相互補完した研究を著し(森岡 1993)、 そのため個々人の個性が生かし切れなかったとの反省のもと、同じ戦隊に所属した人々 に絞ってメゾレベルの相互補完による研究をその後著した(森岡 1996)。後述する自分史 研究と重なる部分も多い。重ね焼き法は他にも幾つかの研究がある(田中 1998,他)。
(4)この区分は絶対的なものとは言えない。自分史のなかには商業出版に至るものもある。 通常は親族や知人へ配布するくらいの自分史執筆者にとって、販路の拡大は大きな願い であった。1997年末には東京神田で、自社の印刷物以外の自費出版物も扱う自費出版専 門の書店が開業した。また、自費出版物が掲示・販売されるホームページもあり、現在 では自費出版物の入手が従来より平易になったのである。そのため、商業出版と自費出 版との境界がなくなってきたとも言える。
(5)「実在の人物が、自分自身の存在について書く散文の回顧的物語で、自分の個人生涯、 特に自分の人格の歴史を強調する場合」というのが「自伝契約」の定義である(Lejeune [1971=1995:10])。
(6)幾つもの「自伝」においてすでに、筆者(本の著者として名前が記されている者)が 実際の執筆者(その本を実際に書いた者)ではないことが明らかになっている。本人が 語り、聞き手だった他人が、その内容を加筆削除、あるいは内容の美化・曖昧化などの 修正をした上で、本人の名前を著者と表記して刊行するのである。これは「口述筆記」 と呼ばれている。自分史でもこの方法が用いられることもある。あるゴーストライター 経験者によれば、わずか30分程度で一回限りの口述内容を拡大解釈させて人生経歴を綴 り、自分史としてまとめたことが少なからずあったという。
 本稿では「口述筆記」に関して、その事実を述べるに止める。それらは「自伝契約」が なされていない自分史とも言えるし、真摯な態度をとらない口述生活史とも言えるだろ う。いずれにせよ、虚実の内容というのであれば、フィクションとして扱われるもので ある。それならば、いずれにしても本稿ではこれを分類できない。本稿では、あくまで も対象者自らが執筆したものを「自分史」、二者関係を明らかにして記述したもののみ を「口述生活史」としておくことにする。
 ある業者が製作した自分史の奥付きには、「著述」と「口述」を分けて記載しているも のもある。これは、依頼主本人が執筆する場合の他に、著者と明記される依頼主の語り を、聞き取った業者側のライターが編集していることを示している。読者にその区別を 提示しているという意味で良心的と言えよう。だが、現在刊行されている自費出版の自 分史のすべてが明確な表記をされているわけではない。「自分史」として出版されてい ても、故人の残した記録を遺族がまとめたものなどもある。「自分史」は一般には、本 稿の定義より、かなり広い意味で用いられている。
(7)日本の自伝研究で著名な佐伯彰一の幾つかの作品を参照されたい(佐伯 1990;1991)。 宗教研究の分野でも、新宗教の発生基盤に関して、さまざまな文書資料を用いながら教 祖の存在をより多角的に浮かび上がらせた研究がある(島薗 1978,他)。
(8)中野の「観察力や表現力のある末端の指導者レベルの個々人を対象に選んできた」と いう述懐を参照されたい(中野 1995:199)。
(9)自分史の社会的背景については小林(1997)が詳しい。さらに自分史の執筆動機も、小 林によれば「記録を残す、体験を伝える」という語と「ふりかえる、整理する」という 語が見られるという。
(10)「私の転機」を自分史の範疇に入れるのは次の三つで問題がある。まず、作家・芸術 家・政治家・学者・実業家など、ある程度著名な人物が執筆しているという点である。 ただし、彼らすべてが自伝を出版しているわけでもない。次に、新聞紙上に掲載されて いる以上、商業出版本なみに編集者が内容をチェックしていると推察される。自費出版 の自分史と比べ、かなり厳しい制約のもとに書かれた文章であることは疑いようがない。 最後に、刊行された単行本と比較した場合、「私の転機」はあまりにも短い。大久保も 述べていたが、研究者側にとって必要な情報がすべて明らかになるわけでもない。ただ し、単行本の自分史すべてに必要な情報が明確に描かれているとは限らないから、これ は程度の問題ということになる。本稿は、大久保の問いかけへ答えるという目的がある。 そこで上記のような問題を指摘した上で、自分史研究の一つとして、大久保自身のライ フヒストリー研究を取りあげたのである。

[文献]
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佐伯彰一 1991(1974)『日本人の自伝』講談社学術文庫。
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桜井厚 1990「語りにみる被差別のリアリティ−口述生活史の多元的意味領域−」『解放社会学研究』4:44-64.
佐藤健二 1995「ライフヒストリー研究の位相」中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』弘文堂:13-40.
島薗進 1978「生神思想論−新宗教による民俗<宗教>の止揚について−」宗教社会学研究会編『現代宗教への視角』雄山閣出版:38-50.
田上貞一郎 1997『自分史の美学とタブー』近代文芸社。
田口純一 1997「なぜ人はプライバシーを公表するのか」『名古屋大学社会学論集』18:
  159-171.
田中耕一郎 1998「障害者の生活史における普遍的問題と主観的社会構成に関する研究−3名の障害を持つ女性の自叙伝分析を通して−」『生活学論叢』3:3-18.
山田典子 1992「職業経歴とライフ・イベント」『教育学研究紀要』(関西学院大学文学部教育学科)19:85-106.


[英文要約]
Methodology of life-history
: comparison between oral life-history and self-history


                              Kawamata,Toshinori

Many researchers chooses to employ the oral life-history amang various
life-history approaches, although materials can be analyzed in the very
much like way with other biographical documents.
In this paner, the focus in on the self-history in comparion with the oral
life-history.
There is a main difference in the characteristics of the data between these
two methods. While in the self-history, writers document their personal
experiences by themselves, in the oral life-history, the data are dictated
through the interaction between interviewers and interviewees.
Following finding was earned as a result of the discussion between two
approaches. Those who study self-history tend to collect as many samples
to induce some general tendencies in them. On the other hand, those who
study oral life-history tend to concentrate on a single sample to describe
his/her life-history in detail.
The conclusion of the discussion is that the type of data should be
determined by the purpose of the study.


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