キリスト教信徒における死者儀礼の問題-教会墓地を中心に

0.報告の前に
 (1)報告者のこれまでの研究
 報告者はを大田区の大森めぐみ教会という日本基督教団の一教会における質問紙調査及びその後の面接調査によって得られた資料から死者儀礼とキリスト教の問題を修士論文「」にまとめ、その一部にその後の補充調査を加えたものを『常民文化』17号にまとめた。
 博士後期課程へ進んでからは「現代日本におけるキリスト教の受容と展開」というテーマを設定した。そして主に東北地方の日本基督教団所属の幾つかの教会で現地調査を進めた。面接調査などを進めていく過程で、社会学において近年注目されているライフヒストリー法を用いた研究を自らの研究に導入できないかと思うようになった。その方法論を学ぶなかで「生活史研究会」に所属し活動するようになり、『常民文化』19号にはその成果の一部を掲載した。さらに、95年1月からは「近現代宗教研究批評の会」という若手研究者たちの研究会を結成し、そこでの議論を軸に、宗教研究全体における調査者とインフォーマントとの方法論的な議論を『宗教と社会』3号にまとめた。
 ただし、報告者のメインテーマはあくまでも「キリスト教の受容と展開」であり、その研究を進展させるために方法論を考察してきたのである。
 今年の三月に後期課程を満期退学した後、この研究所の研究員を委嘱していただき研究を続けることができた。伊藤所長や松崎主任には、さらに今回このような口頭報告の機会を与えていただき大変感謝している。
今回の報告では、報告者が1994年春(1-3月)に実施した「教会墓地調査」という郵送法の質問紙調査、94年から97年に至るまでの現地調査(東北地方の日本基督教団所属教会)、そして福島市の信夫教会での事例研究が中心的な資料となる。信夫教会での調査が報告の中心となるだろう。

 (2)本報告の照準
これまでの実証的な日本のキリスト教研究は「キリスト教が日本社会へ伝播・浸透・定着する過程における、相互の文化変容」の考察をテーマの一つとしてきた。その際用いた方法は、一つの教会における事例研究法であった。中でも文献資料を中心とした歴史研究、質問紙を用いた面接法、参与観察法などが主たる方法であった。その成果として、明治初期のプロテスタンティズムの農村部への受容やカトリシズムへの集団改宗などの事例報告が幾つも見られる。さらに研究が進展し、信徒と非信徒との宗教的態度の比較や二代目・三代目以降の世代の信徒を対象とした調査なども見られ、対象時期についても明治期から現代までと広がってきている(1)。
1976年に千葉県下福田聖公会で質問紙調査を実施した西山茂は、以下のような命題を検証した。すなわち、信仰告白した者の個人的帰属が原則であるキリスト教は@特に先祖祭祀に影響を受けること、A「家の宗教」となることで信仰が安定することである(2)。
他方、キリスト教会指導者たちの中にも、各々の教会での牧会の他に、他宗教との関わりや死者儀礼に関するHOW TO 的な本を出版したり、教団・教区単位で何らかの取り組みを行っている者がいる。だが、信徒数をその指標とするならば、それらの試みは必ずしも成功しているとは言い難い(3)。
報告者はこのような状況を踏まえ、現代日本におけるキリスト教を観察する。1990年代後半のキリスト教は、果たして先の結論の通りであろうか。
そこで本報告では、墓地という宗教施設を分析対象に据えて、もう一度、キリスト教の受容をとらえなおした。それは、先の命題について、@は仏壇の保持で語られることが多かったこと、Aについては世帯主の受洗が他に影響を及ぼし「家の宗教」となるとの文脈で結論付けられており、世代を経た場合があまり論じられていないこと、によりそれぞれが不十分と考えるからである。もう少し述べるなら、@では欠如していたもう一つの宗教施設、Aで足りなかった世代交代という縦断的関わりを持つ施設、として墓地に注目することで新たな考察ができるのではないかと思ったのである(4)。それぞれに対して十分ではないにしても、このような問題提起を行い、キリスト教の受容について再検討をすることが本報告の主たる目的である。なお、Aについては本来的に個人的信仰を要請するキリスト教が「家の宗教」として受容されるにあたって信仰の「変容」もしくは「変質」が述べられてきた。
 報告者が墓地に注目したのは次のような理由による(5)。異教社会とも言える日本において、キリスト教信徒が信徒としてのアイデンティティを確立するため、そして、その信仰を貫徹するためにも、キリスト教会は墓地を自ら建設することが要請される。一方、現代の日本社会において、墓地は一般に各家族の宗教施設である。特に、明治以降は火葬の一般化に伴い、個人墓や夫婦墓よりも家族墓が普及している。個人墓ではなく、家族墓をつくるということは、墓地が個人のものではなく、世代を超えた存在だという認識によるだろう。そのような認識の中では、墓地は人から人へ継承される施設であり、「誰かが墓地を継承すべきである」との規範が人々の間に浸透することになる。
 そこで、墓地に関して、キリスト教会側の対応と信徒たちの実態を見ていくことで、キリスト教の宗教的受容の一側面が理解できるのではないかと思ったからである。
 本報告の手順を述べる。まず日本基督教団(以下教団と略す)の奥羽・東北両教区で実施した教会墓地調査の結果をもとに、教会墓地の現況を概観する。次に東北教区の信夫教会を事例により深い考察をする。やや広い範囲を概観した後、個別事例研究を挙げることで信徒の実態をより深く把握しようとした。なお、先行研究で多かった各個別教会へのインテンシヴな調査ではとらえることのできない全体像把握を意図し、まず、共時的な実態調査を行ったことは述べておきたい。
 なお、プロテスタント各教派はこれまで、日本の伝統的宗教習俗に対してカトリック教会より対決的な姿勢を示してきた。そこで先行研究との対比をも念頭に入れてこのプロテスタント教会の中から日本基督教教団を選択した。それはこの教派がプロテスタント最大信徒数を誇り、歴史的にも新教を代表していると言えるからである(6)。
 また、東北地方の教区を選択したのは、現代日本において伝統宗教習俗との葛藤は都市部よりは村落部の方に残存するであろうと思われることによる。ただし、実際の事例では地方都市である福島市の教会を事例としている。


(1)キリシタンの調査研究は、古野清人、野村暢清、近年は宮崎賢太郎『カクレキリシタンの信仰世界』(東京大学出版会、一九九六年)がある。カトリック教会における調査は、鈴木範久[1967]や安齋伸『南島におけるキリスト教の受容』(第一書房、一九八四年)、泉琉二や伊藤幹治など。プロテスタント教会における調査は、森岡清美『日本の近代社会とキリスト教』(評論社、一九七○年)や西山茂、磯岡哲也、大浜徹也など。
(2)これは、西山茂[1975]や森岡清美[1970]などの結論をもとに、筆者が独自にまとめたものである。また、日本基督教団宣教研究所の調査においても、先祖祭祀と未継承という二つの問題を裏書きする結果となった。宣教研究所の調査は、土居真俊たちにより、1958年度の受洗者たちを対象として郵送法で実施された。その結果を踏まえ、土居たちは、信徒がキリスト教へ回心した後も「先祖祭祀」の気持ちが強く残ることを指摘した上で、クリスチャンホームの造成を提唱し、同時に死者の復活と個人格の永続を信ずるキリスト教の来世観に基きつつ、日本人のメンタリティーに即して、故人に対する敬愛の情を表現する独自的パターンを創造することも提唱している。だがその後、この土居たちの提唱が信徒に受け入れられたとは言いがたいのは周知の通りである。
 なお、クリスチャンホームとは、一般に家族内の成人全て(特に夫婦)がキリスト教信徒の場合を指す。東京都大田区の大森めぐみ教会牧師の岩村信二は「(1)家族員の大部分がキリスト教信仰を奉じ、(2)家族員同士がキリストにある聖なる愛によって結ばれ、(3)家庭の冠婚葬祭の行事をキリスト教式に行うもの」という『キリスト教大事典』[1963、教文館]の定義の三条件のうち、二つでも実行され場合を「クリスチャン・ホームに準ずるもの」としている[岩村・森岡1995:71]。
(3)個別に現在の状況を見るなら、カトリック教会や日本基督教団、日本聖公会といった比較的大きな教派は漸増に止まるものの、他の小規模な単立教会などでは信徒数を大きく伸ばしているものもある。プロテスタントの教派はかなり多いので把握が難しい。これが一時的な傾向かどうかも今後の行方を見なければならない。
(4)そもそも死者儀礼に関して、キリスト教信徒と他の非信徒たちとの間にこれまで多くの衝突があったことは広く知られている。明治期の例として二つ挙げておこう。明治16年12月15日の『公教万報』によれば、千葉県茂原寺での葬儀と埋葬をめぐる騒動では、県令が檀家共有墓地にキリスト教信徒が仏教式によらず埋葬することを事実上認めたということが報告されている。また、明治41年6月18日の『福音新報』によれば、神奈川県鎌倉郡の村長代理は埋葬の際に拒否されて横浜海岸教会信徒の私有墓地へ埋葬されたという。第二次大戦後も、比屋根安定は、「基督教式の葬式を、教会で行って後、死体を寺院境内の墓に埋葬するに際して、改めて仏式の葬式を済まさないと、仏寺の僧侶はなかなか埋葬を許さない」と述べている[比屋根1959:49-51]。さらに近年も、日本基督教団宣教研究所が実施した「高齢者問題実態調査」のメンバーたちの座談会では、「お寺に墓地があるような場合にそこのお寺でお葬式をしなければ墓地に入れてくれないということで、やむをえずそこでするというのもかなりあります」とか、「お寺と教会で二度やる人もいます」という発言があった[日本基督教団宣教研究所1993:232]。報告者の調査でも、「キリスト教は死んだ後は寺の世話にならなければならないと声高に教会をあざ笑うような外部からの誹りを受ける」(奥羽教区)という報告があった。
(5)墓地に関して簡単に概念規定をしておく。いささか機械的ではあるが、本報告で墓地とは「遺体・焼骨を埋葬・収蔵する施設」を指す。その中でも、納骨堂は「地上にて、焼骨を収蔵する施設」、墓は「遺体を埋葬する施設。または地下に設けたカロート(納骨函)にて焼骨を収蔵する施設」という区別をする。
 さらに、キリスト教会の墓地を言及するにあたり、教会員とその家族のために教会が建設・保持・管理している墓地を教会墓地と称する。教会墓地には利用形態によって「一つの墓地を多数の教会員が利用する」教会共同墓地と、「一つの墓地を会員の一家族が利用する」教会家族墓地が集合したものの二つがある。
(6)その他の教団についても幾つか予備的な調査をしているので、それは質問のときに答えたい。
 例えば、三重県四日市市にある美濃ミッションは『日本における真のキリスト教葬式の手引き』[美濃ミッション1964]という小冊子を発行しており、強くキリスト教的意味付けをした葬儀を提唱している。
 カトリック教会は、カトリック中央協議会が出版した『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』[日本カトリック司教協議会諸宗教委員会1985]がきわめて寛容な指針の元に現実的な指導書を著した。これに対しては、プロテスタント各教派から、多くの否定的見解が提出された。
 キリスト教信徒として参照する原型は特に見られなかった。仏教寺院に迫害を受けた教会も少なくない。一方で、プロテスタント各教派の宣教師たちは外国人墓地へ埋葬された。仙台では宣教師たちの墓地が寺院墓地の隣接地に建設され、それを背景に、その後、プロテスタント教会が複数で教会墓地を建設した。このような例は東北各地で見られる。

 キリスト教が日本で受容される際にはさまざまな障害があるのは言うまでもない。一つには、キリスト教はそもそも個人的信仰によるため、クリスチャンホーム化していない日本では、家庭内で信仰が継承されず少数派に止まるということが挙げられる。もう一つの最大の要因として、「家」制度と密接な関係の「先祖祭祀」にあることは論を待たない。日本においてキリスト教指導者たちは、これまでの伝道の際、キリスト教と死の理念については何度となく述べていた。だが、信徒として死者儀礼にどのように対応するかという具体的な点については、特に、プロテスタント各教派では、個々の指導者により対応が異なっており、明確な姿勢は打ち出されていない。
 キリスト教と先祖祭祀に関する具体的な現象としては、儀礼と施設に注目すればよい。具体的には葬儀や葬後儀礼(記念会や回忌供養など)の実修と、家庭内外の宗教施設(仏壇・神棚などや墓地)との関わりである。これは、キリスト教の渡来当初から現代に至るまで何度となく発生している問題である。例えば墓地に関しては、明治以降は墓地を勝手に造成されることが許されない上に、公営・民営の大型の霊園が建設されるのは、第二次大戦後とくに70年代以降なので、キリスト教信徒が仏教寺院の墓地などの既存の墓地を利用せざるを得なかったという事情がある。
 森岡は対象先祖の世代深度に注目し、先祖祭祀と従来考えられてきた死者儀礼を、亡親に対する慰霊鎮魂に重心のある儀礼と、先祖と認知された死者への謝恩・宣誓・祈請が重視される儀礼に区分した。本稿ではそれを参考に、遺族が近親物故者に対して私的な親愛や悲嘆のために行う儀礼である「死者祭祀」と、家の継承を一義として子孫が先祖代々に対して行う儀礼はである「先祖祭祀」が区分できるという立場に立つ。そして、この二つを統合したものを、先に述べた「死者儀礼」と位置づけたい。すると、今まで一括りにしてきたキリスト教と「先祖祭祀」の問題は、実は次の二つの問題だと明確に区別できる。
 一つは旧来の「先祖祭祀」をキリスト教信徒が脈々と実修している場合である。これには非信徒の親族との関係、先世代以前から関係を保っていた寺院等との問題で、これまで指摘のあった多くはこの点である。もう一つは「死者祭祀」つまり、近親者が逝去したときに、キリスト教信徒としていかにこれに対応するかという点である。本稿では主に後者に注目した。
 前者の例として、仏壇に供物を供え、盆・彼岸には、檀家として僧侶に読経してもらっている信徒たちには「キリスト教信仰と、自分たちが先祖のために行っていることは関係がない」という言説が見られる場合もある。保持する位牌に関しても、先祖とのつながりを示す象徴として扱うと説明される。非信徒の家族員が管理していてその家族員が逝去したとき、その「家」で先祖代々守られてきたものとして自分も保持し続けているという。後者の例として、教会指導者側の不備もあってか、近親物故者が出た場合、キリスト教的な意味づけということを考慮せず、従来通りに仏壇や位牌、寺院墓地による伝統的宗教習俗を受容してしまい、キリスト教信徒としての対応に悩みを持っていると告白する者もいる。位牌との関連で述べれば、現在存命中の親族のために保持しているという説明になる。例えば、別居している実母が来たときのために仏壇を管理しているという信徒の一人は、自ら管理している仏壇は「位牌の収容所」だと述べていた。また、長男として、弟たちや子供たちが正月や盆に自らの家に来たとき先祖に挨拶するので保持しているという信徒もいる。彼等の中には自分たちはキリスト教信徒であるから、普段は仏壇・位牌を押入に入れておくと述べる者も少なからず見受けられた。

1.教会墓地調査
 (1)質問紙調査
 報告者は1994年春(1-3月)に「教会墓地調査」という郵送法の質問紙調査を実施した。対象は教団の奥羽教区と東北教区に所属する全149教会(当時)である。有効回答率は64.4%であった(1)。以下、レジュメの表を参照しつつ、その結果を述べよう。また、同年8、9月には幾つかの教会指導者に自由面接調査を行った。そこでは教会墓地の実態や質問紙で表されなかったデータを得たので、それも適宜述べておく。質問紙の内容の一部も参照いただきたい。
 質問紙の内容は以下の通りである。教会墓地の有無・(以下は保持している教会へ)保持の形態・契機・完成年度・場所・墓所の選択理由・使用状況・教会指導者の埋葬の有無・(以下は保持していない教会へ)保持しない理由・教会員からの要求の有無・(以下は全員へ)教会墓地の必要性とその意識、である。表1から表5では、教会の現況を示している。また、表6は墓地の必要性についての自由回答をまとめたものである。この質問紙は教会指導者宛に送られた。そこで、この自由回答は教会指導者の考えであることを予め断っておく。また本調査では、主に教会の種類を指標とした。それは教会の種類が会員数を基準としたものであり(2)、この区分によってそれぞれの特徴が示されるからである。
 まず、表1は墓地の有無に関してである。この調査に対して回答のあった教会は96であった(以下、回答教会というときはこの96教会を指す。また、対象教会というときは149教会を指す)が、質問紙では回答を得られなかった教会に対しては、後に電話で墓地の有無だけは確認しているのでそれを挙げた。この結果、回答教会では71%が墓地を保持していた。さらに、これを対象教会と比較すると、こちらは64%で、やや回答教会の方が保持の割合が高かったことになる。特に数の少ない伝道所では回答教会と埋葬教会の差が11%となっている。そこで、教会の種類全てにおいて回答教会の方が対象教会より墓地保持の割合が高いということを考慮しつつ、回答教会に関する以下の分析を行う。
 表2は対象教会、墓地を保持する教会、墓地を保持していない教会の三つに分けてその平均会員数を見たものである。これによると、墓地を保持する教会はそれぞれの教会の種類において、保持しない教会より会員数が多いことが示される。更に、対象教会との比較でも全て上回っている。表1も合わせて考えると、伝道所(28.9%)より第2種教会(49.1%)、第2種教会より第1種教会(84.9%)というように、会員数の多い規模の大きな教会の方が墓地を保持する可能性が高いということが言えよう。
 では次に、墓地を保持する教会へたずねた設問に関して述べよう。
 表に挙げなかったが、保持の形態を「単独・複数・地域全体」に分けて問うた。「単独の教会で」が8割と多く、「複数教会による」ものが2割弱であった。複数で保持するという事例は後述するが、同一市内の複数の教会で墓地組合などを組織して、造成地に新たに墓地や納骨堂を建設したり、公営霊園などで複数の区画を管理したりする場合がある。
 墓地を保持する契機は、教会内部で必要性を認識して準備を進めた内的要因、教会内部での準備が整っていなくとも保持に至る条件が整った外的要因、という二つに分けて考えた。すると、第1種教会のように大きな教会では「創立何周年かの記念事業」や「教会堂建築を契機に」といった内的要因が多かった。また、伝道所のように小さな教会で墓地を保持する場合は「教会員の寄付」や「霊園の売出しを契機に」というような外的要因が多いことが分かった。
 表3は墓地の場所と墓地の使用状況に関してまとめたものである。まず、場所は公営霊園内(41.2%)が一番多い。次が民営霊園内(14.7%)で、地域の共同墓地を含め、これら共葬地にある教会が過半数を占めた。他方、造成地や教会敷地内に建設したという回答(30.9%)もある。敷地内で建設した場合、その周囲の土地は教会員が保有している敷地だったというやや特殊ケースもあり、一般化はできない。なお、寺院墓地内という回答(5.9%)もあった(3)。墓地の使用状況は、収容予定全体の4分の1以下が80%近い。未完成自体が1割を超えているが、後述するように墓地の完成年を考えると5割近くが完成後20年を経ていないのだから、当然かもしれない。利用の頻度が高いとは言えない状況であった。
 表にはないが、墓地の場所選択理由もたずねている。「近い」「費用の面で」という物理的(実際的)なものが多かった。教会の指導者がそこに埋葬されているかどうかもたずねたところ全体で38%が埋葬されていた。埋葬されていなかった理由は、完成後の逝去者がいないというものが3割であった。教団の場合牧師は招聘制度を取っており、よく変わるので、牧師が在職中逝去した場合など限られた場合のみ埋葬されている。
 表4は墓地の完成年と教会の創立年のクロス集計である。これより、完成年に関して教会創立の年を問わず(1900年以前に創立した歴史の古い教会であっても70年代以降に墓地が完成した教会が71.4%)、1970年代(26.5%)と80年代(25.0%)に集中しているという点で明らかになった。この二つの区分で過半数を超す。さらに90年代以降(13.2%)や未完成(8.8%)を合算すると4分の3に近い。
 では、教会墓地は宗教的受容、つまり信徒数拡大に貢献しているのだろうか。そこで、教会墓地を保持した年度を基準に、その2年後と10年後の信徒数を『日本基督教団年鑑』で確認した。そこで、墓地の完成の後に会員の変化があったかどうかを1970年代に完成した18教会について調べた。それが表5である(4)。すると、2年後は半分以上の教会で増加したものの、10年後では44%の増加に止まっている。もちろん会員の増加というのは、ただ一つの要素で決定されるものではない。ここで示されたのは、必ずしも「墓地の保持によって信徒が増加する」とは言えないということである。これ関しては後に考察する。
 墓地を保持していない教会にも述べておこう。表にないが、保持しない理由は「要求がない」が32%、「個人の意思に任せている」が25%で多かった。また、第2種教会や伝道所では資金不足や他に必要な施設があるという回答も多い。教会員からの要求自体は「有」が61%となる。しかし、現実的なことになると、話題に出る程度で止まり、墓地建設の決定はしていないという回答が圧倒的に多かった。
 以上の結果を簡単にまとめると次のようになる。
 基本的に会員の多い第1種教会において墓地の保持率が高い。形態は教会単独で保持することが多い。契機は第1種教会や第2種教会では内部で準備による内的要因が多いが、伝道所で持っている場合は総じて外的要因に支えられている。墓地の完成は創設年に関わらず、1970年代以降が過半数である。場所は公営霊園内の区画を保持する場合が多く、それは距離や費用などの物理的要因などで選択されている。使用状況は完成の時期が近年だったということもあり、高頻度ではない。また、墓地は保持しても直接的には会員増加につながらない。保持しない理由はさまざまあるが、話題となっても必ずしも保持へとは結びつかない。そこでつぎのような平均像が描けるだろう。「教会墓地は、複数ではなく一教会単独で、創立何周年かの記念行事や教会員の寄付などの理由から保持する。また、墓地は一九七○年代以降に完成し、公営霊園内の区画を確保するが、実施の使用状況は四分の一以下である」。
 また、教会指導者の教会墓地に対する意識も同時に調査した。そこで次に、教会指導者に対しての質問である「教会墓地保持意識」に関して説明しよう。
 まず、積極的にか消極的にかという差異は見られるものの、ほぼ全員が教会墓地は必要だと述べている。その理由について、自由回答の中で用いている言葉を表6に区分した。その中で一番多かったのが「伝道・宣教」のためというものである(18.9%)。ただ、これは教会指導者として基本的な回答でもある。そこで、筆者は保持意識をそれ以外の項目で二つに区分した(次に「本人のため」が15.2%、以下、「信仰の証として」「仏教からの独立」「遺族のため」「生と死に関する責任」「信仰の継承」「信仰生活の安心」などが10%を上回っている)。
 一つは、「信仰の証」や「生と死への責任として」「信仰の継承のため」「仏教からの独立」などと言及しているものである。これらは、「キリスト教会として積極的な意味づけ」とまとめられるだろう。指導者の78%がこれに言及していた。もう一つは、「本人のため」「遺族のため」「墓地がない人のため」「家族で一人だけが信徒」などというもので、「信徒の実際的な要請への応答」と言えるだろう。53%がこれに言及していた。前者は指導者としてキリスト教的死者儀礼を積極的に信徒へ示していく姿勢が想像される。後者は具体的な問題解決のために努力している姿勢が見て取れる(5)。
 もっとも、この意識はあくまでも教会指導者たちの意識であるということは考慮せねばなるまい。信徒たちの意識との間に差異が当然あるのではないかということである。


(1)この調査は、教会が墓地を保持しているかどうかという基本的資料を作成する必要があったため、筆者が一人で実施したものである。調査時点での教会数は(第一種教会・第二種教会・伝道所の順に)、奥羽教区が59(29・23・7)教会、東北教区が90(44・32・14)教会、であった。
(2)『日本基督教団 教憲教規および諸規則』(改訂)[日本基督教団1991]によると、第一種教会・第二種教会・伝道所という教会の分類は、概ね、信徒数と献金額でなされている。一種は50名以上、二種は20名以上、伝道所は20名未満、という基準が目安となる。献金額は信徒数に大きく影響されると思われる。
(3)調査時点では認識不足のためこのような区分をしたが、その後、後述のような区分を考えた。
(4)1970年代に教会墓地を建設した18の教会について、墓地の完成年とその2年後、10年後の信徒数を調べた。すると、2年後に信徒数が増加した教会は10、減少した教会は7、同数の教会が1であった。10年後では、増加した教会が8、減少した教会は10であった。墓地完成2年後の信徒数増加率は最高の教会で132%、最低が75%、10年後では最高が125%、最低が63%であった。結局、墓地建設と信徒数とは相関関係にあるとは言えない。なお、10年後の状況も比較したかったので70年代建設の教会を選択した。
(5)調査の過程で牧師たちが、プロテスタント教会の指導者たちの公式見解として、しばしば日本基督教団出版局が出版した『死と葬儀』[日本基督教団信仰職制委員会1974]を引用する。だが、本発表では、同書で述べられていたような理念的な問題ではなく、現実問題として信徒と指導者たちがどのように行動意識しているのかを考察した。
 また岩村や秋田県横手教会の牧師笠原金吾[笠原1989]による死者儀礼に対する信徒への指導の実践については、東北地方の牧師たちからも広く知られている。

 (2)現地調査を踏まえて
 では、実際に教会墓地を保持している教会の中では、具体的にはどのような問題点を抱えているのだろうか。
 報告者は、94年から97年にかけて東北地方の日本基督教団所属教会を訪問し、様々な教会墓地を観察した。そのときの牧師や信徒との面接で得た資料とともに、教会墓地の実態を幾つか述べよう(6)。
 多くの現地での見学などを重ねるうちに、報告者は教会墓地を以下の通りに分類した(7)。
埋蔵形態・保持形態・場所の三つである。
[埋蔵形態] @分譲式 A共同埋蔵式 (埋蔵式)
      B棚式 Cロッカー式 (納骨堂式)
[保持形態] a単独保持 b複数保持
[場所]   x寺院 y共葬墓地 z造成地

 説明の必要があるものについて少々述べておく。
 埋蔵形態のなかで墳墓型とは、遺体を埋葬する施設と焼骨を地下に設けたカロート(納骨函)に埋蔵する施設両方を指す。いずれも、外見上は「土に還る」形になっている。納骨堂型とは、地上にて焼骨を収蔵する施設を指している。@は家族・個人ごとに墓石・区画を使用し個人が管理する形になっているもの、Aは一つの墓石・区画を教会員とその家族全てが一緒に利用する形になっているもの、Bは棚に一つ一つ骨壺を置くもの、Cは一つのロッカーに一つもしくは複数の骨壺を置くものである。
 場所は、寺院墓地内にあるか、公営・民営を問わず、多数の人々が共同で使用する墓地や霊園内の区画にあるか、墓地建設のため教会が開拓造成した土地や教会敷地内に墓地を建設したかという区分である。

 以上の分類から幾つかの事例を見ておこう。
[@bz]奥羽教区T地区の5つの教会
 Tキリスト教霊園。これは、奥羽教区T地区の5つの教会が、共同霊園委員会を組織し、1979年にH市郊外の果樹園を購入し、ここに墓地を造成したものである。敷地は1980uで、信徒やその家族に分譲される「個人墓地」と合葬・一時預かりのための納骨堂「共同の墓」という二つがある。利用料金は、「共同の墓」へ全骨を合葬する場合は5万円、分骨で合葬する場合は2万円、一時預かりの場合が1万円となっている。「個人墓地」の分譲代金は、5教会の信徒の場合10万円、他教会の信徒は12万円。年間の清掃管理費は、埋葬済みの遺族は3000円、未埋葬の場合は2000円、共同の墓は1000円となっている。墓地の契約数は個人墓地71区画中52であり、そのうちまだ墓石がまだ建立されていない区画が21ある。共同の墓へは24体が合葬されている(以上の人数・金額は全て94年9月現在)。毎年9月の第3日曜日に、5教会合同の墓前礼拝を行っている。礼拝後は墓地の清掃を参加者全員で行い、それが終わった後、持ち寄った食事で昼食をとり、遺族同士の交流を深めている。筆者の参加した94年度の墓前礼拝では約30名が小雨の降るなか集合した。

[Aby]奥羽教区A地区のO教会
 前任のK牧師が教会墓地建設を熱望し、1979年には市内4教会(カトリック・聖公会・日本ルーテル同胞教団)によって「O市内キリスト教共同墓地建設委員会」を結成した。だが、適地が見つからなかった。しかし、87年に新設された市営霊園における自由墓地造成小委員会に出席し、一区画2平方メートルを4つ確保した。O教会では1992年に墓石を建設・完成した。そして、カロート内部に棚を設置し、分骨が10柱、全骨1柱が埋蔵されている(94年9月現在)。また、まだ計画の段階だが、将来埋蔵数が増加していったら、個人での埋蔵は5年間にし、その後合葬することを構想している。現在でも4教会による墓地委員会を年間二度開催している。しかし、4教会が合同で墓前礼拝をすることはなく、各教会が単独で礼拝している。

[Cbz]東北教区のS教会
 市内3教会で共同の納骨堂を持っている。筆者の分類では教会共同墓地ということになる。1970年に完成したのだが、現在の利用数は100のロッカーのうち30くらいである。利用が必ずしも多くない一つの理由として、納骨堂に対する意識ということも考慮しなければなるまい。東京都霊園問題調査会が昭和62年に実施したの調査では希望する墓の形式として、和式61%、洋式12%、芝生式15%と従来の日本式と呼ばれるものに近い三つのタイプの合計が88%となったのに比べ、納骨堂形式は1.8%しかなかった(11)。納骨堂の意識も最近では変わっているかもしれないが、信徒への面接調査で多く聞いた「土に還る」という言葉に代表される墓地への要求は、納骨堂ではなく墓へのものである。

[Baz]奥羽教区N地区のT教会
 教会から自動車で5分ほどの場所で、もともと個人の墓地だった場所の隣を教会の牧師用に借用して、そのまま教会墓地として利用している。1974年に完成した納骨堂は地下に半分埋め、その周りに芝を植えた。そして外見は土の中に埋葬するような形態にしている。納骨堂の大きさは2m立方であり、その中の棚に9名が分骨されている(95年8月現在)。分骨の場合、それ以外はそれぞれの家族の墓に埋蔵されている。遺骨の収蔵に際して特別に利用金はとっていないが、各家族は特別に献金している。

[Baz]奥羽教区N地区のO教会
 T教会の墓地を参考にしたO教会はその敷地内に、芝が周囲に植えられている半地下式の納骨堂を1990年に建設した。ちょうど、教会堂と隣接している場所で、その上に建てられた十字架は教会堂の方を向いている。納骨堂は棚になっているが、この納骨堂では中央部に穴を掘っている。この穴は合葬用になっており、2名が合葬されている(94年9月現在)。管理費は一柱につき年間3000円で、収蔵する際これとは別に5000円を支払うことになっている。合葬用の穴は希望者は最初から埋蔵し、それ以外は棚が全部埋まった場合に順番に合葬用穴へ移すという内規にしている。ただし、教会墓地自体の完成が近年であるため、まだ合葬者以外6柱しか収蔵されていない。

 教会墓地に関する問題点は次のように整理できる。
 @の場合、墓地は継承すべきという規範を信徒たちが持っているため、先代の墓地が寺院にある場合はそれを継承しようとし、墓地を創設しようというときには子孫との信仰の違いによって墓地が無縁化しないようにするため、無宗教の墓地を志向する。
 Aの場合、他人と遺骨が一緒になることによって近親物故者の個別性がなくなることへの違和感が遺族たる信徒におこる。彼等は遺骨に対して、知識としてはモノであると理解できても、心情的には単なるモノではなく、近親物故者を指し示すモノだという意識を持つ。そこで、個別性を求めてしまうので、他人との共同埋蔵という埋葬形態に対して躊躇いがおこる。
 B・Cの場合、地上での収蔵という埋葬形態は、信徒に完全に受け入れられているとは言いがたい。また、半永久的に遺骨はそのまま置かれるわけだから「土に還る」ことができないという点での心理的葛藤が生ずる(18)。

 先に教会墓地の保持と信徒数との関係を確認したとおり、教会墓地は伝道の補完的な役割とはなりうるとしても、それ以上布教に貢献しているとは言いがたい。教会指導者たちは教会墓地を保持したいと考えていても、信徒の側では専ら自分たちが墓地を持っているかどうかということを重視しているようである。つまり、教会墓地は墓地を持っていない信徒に対して、精神的に安心させるという効果はあるかもしれないが、自ら墓地を持っている墓地が、積極的に教会墓地へ改葬したという段階はあまり見受けられない。ただし、以前は外国から経済的に援助を受けていた教会が多かったということを考慮すれば、教会墓地を建設するにまで至らなかったのは当然だとも言えるだろう。すると、現時点で教会墓地を利用頻度は低くとも保持していることは、教会が今後、当該社会に定着していく可能性を秘めているとも言えるかもしれない。

 次に自由回答の記述や自由面接のときの回答を紹介しよう。
 まず、家族の中で自分一人だけキリスト教信徒の場合、死後、自らが望んだようにキリスト教墓地へ入れないという問題がある。遺族が無理やりに先祖代々の墓地のある仏教寺院で葬式をし、そこへ埋葬するという例は数多い。牧師たちは、そのような事例を見ているので高齢者などには、自らの死に関して家族に自分の意思を伝えて置くように言う。しかし、家族へ意思を伝え、また教会共同墓地使用の権利を生前確保していた老女の事例だが、彼女の死後、遺族がそれを無視して自ら管理する墓地へ収蔵したということもある。難しい問題であり、解決はなかなか難しい。
実際に自らは教会家族墓地に入っても、その後誰も管理してくれないという事例もあった。次世代がキリスト教信徒でなく、しかも他地域へ移住してしまうということも少なくない。墓地を求めた世代はそこを次世代に祀ってもらいたいと意図しているが、次世代はその意図にそぐわない行動をとることも多い。
寺院墓地を利用することを公言する信徒もいる。教会が墓地を保持しているのだが、自らが守るべき墓地があるという。彼らは自らの信仰と墓地は別であるとの信念を持っている。ただ、この場合、教会指導者がどのくらい彼らに死者儀礼についてのキリスト教的意味付けを日頃からしているかいう問題にもなってくる。
 以上の議論からつぎのような作業仮説が見いだせる。
「キリスト教指導者のみならず信徒たちも教会が独自の墓地を持つことには賛成する。だが、信徒たちがそれを利用するとは限らない。それは、信徒たちが墓地を自らの信仰の証という観点ではなく、個々の家族で保持・継承する宗教的施設だとの認識を持つからである。さらに教会墓地の形態によっても問題がある。クリスチャンホームが少ない日本において、信徒たちは、無宗教・無宗派を標榜する霊園の区画を保持することが望ましいと考えている場合もある」。
 この仮説の理由として直ちに想起されるのは、日本ではキリスト教は信仰ではなく思想として受容されているという指摘と、新しい倫理の面が強調され、救済宗教より倫理宗教として受け止められ、倫理生活の破綻が信仰生活の崩壊へとつながり、棄教へと結びつくとの指摘である。近代の日本社会でキリスト教受容の大きな障害となったのは、日本社会の地縁的・血縁的共同体による規制であった。その結果、キリスト教を受容したのは「イエ」「ムラ」を離れて都市部へ出ていた若い層であった。そして戦後のブームや停滞などの動きはあるものの、近年は総人口比一パーセント前後の信徒数をされている。

(6)今回の東北地方の調査に対して、比較対象として不備が残されているものの、1993年12月に東京教区の第一種教会全172教会(当時)のうち、資料の得られた75教会について、教会墓地の有無などに関して予備的に調査したのでその結果をここに簡単に記しておく。
 教会墓地を保持している教会は77.3%で、そのほとんどは共葬墓地どであった。内訳としては公営が43.1%、民営が51.7%である。寺院墓地は皆無であり、造成地は1教会だけだった。東北地方の教会墓地事情とはだいぶ趣を異にする。また、墓地の創設年は、公営霊園に保持した教会では1950年代以降が多く、民営霊園に保持した教会は、全てが1961年以降だった。東京教区では教区自身が1957年に都営小平霊園に教区墓地を建設している(第13区1側7号。1977年現在で2188個利用可能のうち1588個が契約済み)。同じ小平霊園に教会墓地を保持する教会が11もあった。ただし、1981年以降は都営の八つの墓地において新規募集数が非常に少なくなったこともあり、教会では墓地を民営霊園へ建設せざるを得ない状況になってきている。
 一方、複数の教会で墓地を管理しているというのは、東北地方に限る事例ではない。例えば、神奈川県では、「湘南キリスト教墓苑」というものがある。これは、日本基督教団に所属する神奈川県の教会を中心に12の教会が「湘南キリスト教墓苑組合」を結成し、平塚市土屋に墓地を造成地へ建設したものである。各教会ごとに高さ190p、横2m、奥行き3mの大きさの納骨堂を設けた。毎年9月の秋分の日に12教会の関係者が集まり、合同礼拝を実施している。12教会全体で117柱が収蔵されている(95年1月現在)。
 さらに沖縄では。家族墓地が多い中、教団では共同納骨堂を建設している。沖縄市に隣接した豊見城村のアッセンブリーズオブゴッド教団の教会では97年4月に納骨堂を完成させた。
(7)分類については『宗教研究』69(4):1033頁で公表している。
 星野は新宗教教団の墓地に関して、信仰の中枢に関わるものであるものの、結局、遺族ないし後継者に委ねられる面が多いと指摘する[星野1994:85]。そして、後継者の信仰が死者と異なる場合、教団側の意向と合わない可能性があることを指摘する。つまり、信者個人の信仰の結実という個人的問題から、死に関する日本人の伝統的習合的観念、土地取得という点では世俗的次元の問題まで関わるのだと言うのである。これは、いずれも本論文で筆者が述べてきたことと重なってくる。
 墓地の形態については、槇村久子『お墓と家族』(朱鷺書房、一九九六年、二一一-二三二頁)が詳しい。

2.信夫(シノブ)教会の事例
 (1)歴史的地理的背景
 本報告で信夫教会を対象とした理由を簡単に述べておこう。前牧師である小林喜成が「キリスト教信徒の死者儀礼」という筆者の問題関心に共感しており、調査に非常に協力的だったという現実的な理由もある。しかし、それよりも、東北地方の教会墓地の一つの典型であることが主たる理由である。先の質問紙調査で明らかとなったように、多くの教会では公営霊園の一画に墓地を建設し、まだ利用が四分の一以下である点がそれである。更に、墓地の形態では、焼骨を地下へ埋蔵する墳墓型と、焼骨を地上へ収蔵する納骨堂型という二つの形態を信夫教会では合わせて持っている。そこでそれぞれの問題点などを信徒がどう意識しているのか理解できるのではないかと思われる。

 A)歴史
 続いて、歴史的背景を簡潔にまとめる(1)。
 東北地方全体において、キリスト教はカトリック教以外にも、ギリシア正教や、新教の中でもメソジスト派、ディサイプルス派などが早くから伝えられ、多様な展開を示している。特に明治初期、東北全般のギリシア正教の布教は仙台藩士の伝道者を中心に広められていった。ただし、初期のギリシア正教徒たちで他の教派へ転ずるものの少なくなかった。福島地方では、キリシタン大名の一人蒲生氏郷が一五九○(天正一八)年に会津に入り、以降、キリシタンへの弾圧の記録が幾つも残っている。福島県福島市へのキリスト教の布教は、一八七八(明治一一)年一一月頃にギリシア正教の講義所ができたことに始まる。プロテスタント教会では、一八八五(明治一八)年夏の押川方義の演説会が契機となって、翌八六年五月に創立された日本基督教会福島教会(現日本基督教団福島教会)が最初であり、カトリック教会では一八八八(明治二一)年に仙台カトリック教会の信徒の移住を発端として、一九○四年八月に司教が滞在するようになった。
 さて、福島市に位置する信夫教会は、一八九五(明治二八)年六月に創立された。そして、集団としての形が整い始めたのは一八九九(明治三二)年十月に、福島鉄道技師の自宅で集会を定期的に持つようになってからである。以降、鉄道関係者を中心に家庭集会が開かれるようになった。一九○○年にはメソジストの一派である日本美以(みい)教会に講義所と承認された。その当初は代務牧師が任じられていたが、一九○二(明治三五)年四月に白鳥甲子造が初代の定住牧師となり、以降、現在の十九代塚本一正まで全く無牧の時代がなかった。さて、一九○七年には米国メソジスト監督教会・カナダメソジスト教会・米国南メソジスト教会のメソジスト三派が合同し、初代監督として本多庸一が就任した。この際、この教会は、日本メソジスト福島教会と改称した。
 明治・大正時代は借家を転々としていたが、十代の三浦金吉牧師のときに教会堂用の土地を購入、さらに十三代藤田恒男のとき、一九三六(昭和一一)年には積年の課題であった教会堂と牧師館を、現在地に建設・完成した。これを機に補助教会から自給教会となった(2)。一九四一年のプロテスタント諸教会の合同により、日本基督教団が誕生すると、この教会はメソジスト派だったため第二部に所属することになった。また、翌年日本基督教団信夫教会と改称した。
 第二次大戦後、近隣の戦災引揚者住宅に幼児・児童が多くいるという事情もあり、また、教会の信徒の中に保母がいたこともあって、一九四八(昭和二三)年四月に教会付属の保育所「信夫保育園」を開設した。これは五五年三月には「志のぶ幼稚園」へと改められた。
 教会の主要メンバーだった者数名が戦時中、信夫郡荒井村(現在の福島市荒井)へ疎開した。彼らは四七年九月から、先住者やその他の疎開者たちと共に、聖書研究会の家庭集会を持つようになった。当時の牧師伊藤忠利によって定期的集会がもたれるようになり、ついに五三年四月には「福島荒井伝道所」となった。ちょうど「ラクーア伝道」という開拓伝道の指定を受け、財政的援助もあったことも幸いだった。そして信夫教会では一五名の会員を転籍させ、第四日曜夕拝の献金を送り、福島荒井伝道所でも転籍した会員の誕生日献金を信夫教会へ送るなど交流がもたれた。この伝道所は五九年には第二種教会へ昇格し、自給教会となり、定住牧師の赴任、牧師館や教会堂の建設、教会付属の「愛隣幼稚園」経営と発展していった。
 小林は一九五七(昭和三二)年に赴任した。六○年には創立六五周年記念事業として会堂内外を改修し、六八年一一月には新会堂が完成した。そして、九四(平成六)年には創立百周年を迎えた。そして九七年三月に牧師を引退した。同年四月より塚本一正伝道師が着任した。

 B)その他の状況(地理を中心に)
 福島市には97年3月現在で31教会がある。カトリック教会が2(野田町273名、松木町617名)、日本ハリストス正教会が1(24名)、プロテスタント教会が28教会ある(『キリスト教年鑑一九九七』キリスト教新聞社)。日本基督教団の教会は4教会である。平成8年1月1日現在(宗教年鑑、文化庁)では信者数がなので、全人口(28万5754人、平成7年国勢調査)に占める信徒率は0.32%となり、決して高い数値とは言えない(3)。
 仏教寺院の方は、合計108寺院(100%)あり、曹洞宗が40(37%)、真言宗が15(13.9%)、天台宗が14(13.0%)、臨済宗が9(8.3%)、真宗が7(6.5%)、浄土宗が6(5.5%)、その他となっている。曹洞宗が卓越している。県下主要都市ではいわき(真言宗38.9%、浄土18.2%、曹洞17.2%)、郡山(曹洞31.7%、真言31.7%、天台14.9%)、会津若松(真言25%、曹洞22.3%、浄土11.6%)と比べても特徴がある。また人口比(‰・パーミル)を見ると福島市(0.38)は、いわき(0.56)、‰会津若松(0.94)、郡山(0.31)と比べてやや寺院が少ない。福島県には155教会(キリスト教年鑑1997)があり、県下の主要都市の人口比(‰・パーミル)を見ると、いわき29教会(0.08)、郡山19教会(0.06)、会津若松7教会(0.06)なので、福島市には教会の数は多い(0.11)ことが分かる。
 他の教会について概観しておこう。
 市内には、昭和七年に渡来したカナダ・ノートルダム修道女会が経営する、桜の聖母学院がある。戦前から幼稚園が開設されていたが、戦中に閉園した。第二次大戦後は、一九四六年に小学校、四八年に幼稚園、四九年に中学校、五三年に高等学校、五五年に短期大学という順に開設されていった。短期大学には英語科と家政科がある。そして、市内には二つのカトリック教会があり、小林はこの教会墓地を参考にしている。カトリック松木町教会では、一一月の諸聖人の日に、墓前礼拝を行っているが、信夫教会でも同日に墓前礼拝を実施している。
 また市内のキリスト教会が合同でクリスマス講演会などを催している。

(1)歴史的記述は、以下の文献による。小林喜成『日本キリスト教団信夫教会八十年史』(日本キリスト教団信夫教会、一九七五年)、小林喜成「キリスト教」(『福島の文化』福島市史別巻Z、福島市教育委員会、一九八九年、二九二-三○九頁)、日本キリスト教団信夫教会『日本キリスト教団信夫教会創立百周年記念誌』(日本キリスト教団信夫教会、一九九五年)、東北教区宣教究所委員会編『日本基督教団東北教区五〇年の歩み』(日本基督教団東北教区宣教研究所委員会、一九九二年)。
(2)補助教会とは教会内の信徒の献金で教会の運営が賄えず、ミッションや教団などからの金銭的援助を受けなければならない教会であり、自給教会はそうした援助なくして運営していける教会を指す。設立の際、自給できていない多くの補助教会では、自給できることを目標にしていた。
(3)一九九四年版の『キリスト教年鑑』によると、プロテスタント・カトリック・ギリシア正教の教会の合計信徒数はそれぞれ、六八二名、八五七名、二四名となっている。九四年度の福島市人口二八万二四五三名として計算した。福島県の人口は213万3592人なので、基督教の信者は9000人(人口比0.42%)、神社の信者数は1280927(人口比60.0%)、寺院の信者数は994218(46.6%)と比べて信頼できる数値であろう。
 なお、他の東北各県の信徒数・団体数は次の通りである。青森(6137/96)、岩手(5064/93)9、宮城(14805/189)、秋田(5509/84)、山形(4986/94)。
 文化庁編『宗教年鑑平成7年度版』(平成7年1月1日現在)と総務庁統計局編『日本統計年鑑』(平成6年10月1日現在)をもとに、人口10万人当たりのキリスト教系宗教団体数を調べると、全国平均は7.5で、福島は7.1と平均を下回っていた。他の東北各県は、青森県が6.5、岩手県が6.5、宮城県が8.1、秋田県が6.8、山形県が7.8となっており、平均前後である。なお、東京は9.9、長崎は19.4、沖縄は21.5であった。
 これは池上良正[1991:213-214]に倣った方法であり、ある程度の目安となるだろう。

 (2)墓地建設と牧師の指導
 四○年間信夫教会の牧師を務めた小林の死者儀礼への対応に注目する。
 小林(1923年4月28日生。岡山県出身。日本基督教神学専門学校卒。55年より正教師)は就任当初から、キリスト教会に墓地がないことを課題としていた。東北地方全体を概観すると、信夫教会は、比較的早くから教会墓地建設を進めた方になる(4)。その理由は、キリスト教式葬儀・墓地を望んだ信徒が数名、仏式葬儀及び寺院墓地へ埋葬された経験を持っていたことによると言う。また、小林と同年代の若い教会員たちが、賛同し積極的に教会独自の墓地を持つために行動したことが大きな原動力となった。そして、一九五八(昭和三三)年九月、市営の渡利(ワタリ)墓地内に、第一区八六・八七・八八号という、十坪三区画の土地を獲得した(5)。教会からは自動車で一○分という場所に位置する。渡利墓地は浄土真宗本願寺派の瑞竜寺に隣接していた山を切り開いて建設された市営の墓地である。
 同所を選んだ理由の一つには、福島市の二つのカトリック教会が、既にこの墓地内に教会墓地を保持していたことが挙げられる。平成九年現在で約二百区画が、カトリック教会員の家族墓地として利用されている(6)。
 六○年のイースターのときに高さ奥行き共一メートルの納骨堂が完成した。その後、九二(平成四)年にはポルトガル産花崗岩の墓柱を建てた。高さ二メートルの墓柱は「望新天新地」と刻まれ、その上には高さ一メートルの十字架がそびえ立っている。これが納骨堂の隣に完成した。墓柱の下にはカロートを設けており、九六年一月には初めて一名を埋蔵した。
 小林は、他宗教への寛容な姿勢ということをも牧会の基本的な態度としていた。自らの信仰を守りたいならば、他人の信仰も大切にすべきであるという彼の主張は、筆者の観察においても、信徒たちに浸透していることがうかがえた。
 教会墓地はまず納骨堂の建設から始まり、これは信徒たちに一時預かりとして認識された。そして、本来意図していた共同埋蔵式への移行を近年進めようとしたが、これは牧師の思うようには進まなかった。九五年頃より、将来的に共同埋蔵式への移行を提案したところ、それまで納骨堂に預けていた信徒のうち何名かは自らの家族の墓地を新たに求めてそこへ改葬したのであった。そして、ようやく九六年一月に初めてカロートへ埋蔵した者が出た。ただし、単身者である。
 納骨されている者は、必ずしも信徒とは限らない。規約は定められていないが、現状では、教会の役員会で認可した者について納骨を認めている。信徒の遺族はいずれも認められている。
 墓地に早くから関心を持っていた小林は、当然ながら葬儀自体も何十回も司式している。次にその資料を検討しよう。
 告別式次第は「前奏、聖書、讃美歌、聖書、祈祷、讃美歌(故人愛唱歌)、故人略歴、式辞、祈祷、讃美歌、弔辞・弔電、頌栄、終(祝)祷、挨拶(遺族・葬儀委員長)、告別(献花)、」となっている。そして略歴を記した式次第を準備する。たまのや五月会館で前夜式を、たまのや斎苑で告別式を行うことが多い。
 また、小林は高さ二○センチメートルほどの木製の十字架を遺族に渡している。引退までに十五遺族へ渡した。遺族はこれを居間の棚の上などに故人の写真と一緒に飾る。この十字架には故人の名前と逝去日が書かれており、位牌の代替物とも言えなくもない。だが、筆者が観察した限りにおいては、信徒たちはむしろ、その十字架のおかげで、既製の仏壇を購入することなく、キリスト教的に死者の記念を家庭内でできるとしている(7)。

 仏壇・位牌保持の意識を、主に信徒との面接から、二つの意識に区分して紹介しよう。
 一つは、先祖とのつながりを示す象徴として扱うという意識である。非信徒の家族員が管理していてその家族員が逝去したとき、その「家」で先祖代々守られてきたものとして自分も保持し続けているという。
 もう一つは、現在存命中の親族とのつながりのために保持しているという意識である。別居している実母が来たときのために仏壇を管理しているという信徒の一人は、自ら管理している仏壇は「位牌の収容所」だと述べていた。また、長男として、弟たちや子供たちが正月や盆に我が家に来たとき先祖に挨拶するので保持しているという信徒もいる。彼等の中には自分たちはキリスト教信徒であるから、普段は仏壇・位牌を押入に入れておくと述べる者も複数いた。
 確かに、報告者の観察でも、各宗派の本尊が祀られている仏壇はあまりない。仏壇がある家庭でもその中は、ほとんどが位牌のみといった感じだった。
 小林に限らず多くの教会で実施していることに、各月の第一日曜日の週報に「教会員の誕生日と、逝去者の逝去日」を記し、それを読み上げることがある。面接や座談会などで、多くの信徒たちがこの試みを絶賛していた(8)。

(4)先述の調査時点で約半数の教会が教会墓地を保持していたが、その建設年代の平均は一九七○年代であった。
 なお、福島市内にある教団の他の教会の状況は次の通りである。福島教会は昭和二年五月十三日に逝去した桐沢長老の遺族が、御山の私有墓地を四○坪教会墓地として寄付したことに始まる。その後昭和五七年八月には「神の家族」という墓碑を持つ共同の納骨堂が完成。昭和六一年五月一八日の創立百周年記念礼拝時の牧師の言葉によれば、一二家族の墓碑があり、三区画の余地がある。また、納骨お堂には五名の遺骨・分骨が納められている。明治二六(一八九三)年以降、一二五名が教会で葬儀を行い、芦名直道牧師自身、昭和四九年以降二五名の葬式を司式した。
 飯坂教会にはない。福島新町教会も信夫山にある(民営か市営か不明)。福島伊達教会でも民営霊園に平成二年に建設した。
(5)福島市営の墓地は一八九六(明治二九)年に開設された御山(オヤマ)墓地、一九四五(昭和二○)年に開設された岩谷(イワヤ)墓地が順に満杯になり、三番目の墓地として一九五三(昭和二八)年に開設されたのがこの渡利墓地である。四番目に開設された新山(シンザン)墓地も既に満杯であり、新しい墓地の用地買収が進められている。
(6)カトリック二教会は合同で、御山墓地(昭和十五年に共同納骨堂建設=未使用)にも約八十区画の教会墓地を確保している。この墓地内には、他のプロテスタント教会の教会墓地がある。カトリック松木町教会で長老数名と面接をしたのだが、この教会員の中にも信徒だが先祖代々の寺院墓地を保持し続ける者もいるという。昭和五十年頃から十一月の諸聖人の日にミサを墓前で行うようになった。カトリック教会は『手引き』を発行したが見ることもなかったという。松木町と野田町二つのカトリック教会が墓地管理委員会を運営している。年間(月間?)管理料が御山墓地二千円、渡利墓地千円だという。
(7)ただし、その意識となると、仏壇化と言ってもいい。頂き物をしたときにその前に置いておくとか、正月の雰囲気を出すためにその前に鏡餅を置くとの発言もあった(95年1月に信夫教会で行った、死者儀礼に関する座談会)。
(8)本報告では小林の試みを幾つか紹介した。葬儀に関しては他の教会も熱心なところもある。例えば福島伊達教会では「キリスト教会の死と葬儀について」という心得を書いたレジュメを用意している。これは、筆者が廻った東北地方の幾つかの教会でも実施していた。

 (3)信徒たちの言動
 では、次に利用の実態を見ておこう。先述の通り、納骨堂は遺骨の一時預かりとしての利用が多い。各々の家族が自らの墓地を建設するまで預けておき、それが完成すると引き取るという利用法である。本来、牧師が意図していた利用ではないものの、これまでのところ、それは認められている。三十七年間に二十六柱の遺骨が収蔵されたが、九七年八月現在で収蔵されている遺骨は十柱である。それ以外は後に自らの墓地へと改葬された。
 九二年には墓誌(納骨石碑)とメール・ボックスが完成した。墓誌には、カロートに納骨された者の名前が刻まれている。メール・ボックスは納骨堂の脇に設置された。これは、墓参者が自由に記帳できるようにという意図で、牧師が提案して九一年八月から実施されている。この中にはB六版の記帳ノートが置いてあり、後から墓参に来た者は、先に書いたものを読むこともできる。このノートには信徒以外にも記帳する者があり、九七年八月現在で既に四冊目が使用されていた(9)。
 そこで、面接で得た口述資料とメールボックスの記帳ノートの記述をもとに、考察を進めていきたい(10)。本発表では三名の状況を中心に見ていく(年齢は九七年九月現在)。教会墓地へ収蔵したが二例、教会墓地以外へ埋蔵したが一例である。具体的には、A(非信徒の夫を教会墓地へ収蔵した信徒)・B(非信徒の父を教会墓地へ収蔵した信徒)・C(非信徒の妻を他の墓地へ埋蔵した信徒)である。

 (A 教会墓地:非信徒の夫、七○歳、女、初代、高等家政女子、自営業)
 キリスト教信徒の息子は東京で妻と娘二人で生活しているため別居。一九九○年八月に夫が亡くなってからは一人暮らしである。この教会墓地以外には墓地を持っていない。夫が死を間近にしたときに、「俺もクリスチャンになろうかな」と言ったことと自らが信徒だったため、教会墓地へ納骨。亡くなった当初は毎日のように墓参していた。また、夫は熱心な仏教徒だったため、仏壇もあるが、世話はAがずっとしている。
 Aは九二年六月に「今の私は悪魔の誘惑に心が乱れています。……必ず主が救けて下さることを信じて感謝してお祈りいたします」と記入してからは、月一回以上名前や何らかの文章を残している。九三年三月には「神の試練と思われる日々、今、私は信仰を試されているものと、これらのことをひとつひとつ祈りつつ耐えています」となり、同年八月には「神のおはげましで少しずつ強くなれそうです。年をとっても新しいことに雄々しく積極的に志にあたれるようにしたいと思っています。神の御加護を信じつつ」と心境が変化している様子を書き表している。
 筆者との面接においても、墓地に行って神と対話することによって慰められ励まされると述べている。同時に墓地で草むしりなどして過ごすと心が安まるのだとも述べる。ただし、自らの死に関しては、キリスト教信徒の息子夫婦に任せるつもりである。
 九七年現在、夫の死後七年を経て、安心の日々を過ごしている。脚の具合が思わしくないので墓地へは以前のようには行けなくなった。だが、納骨した八月三一日には東京に住んでいる息子夫婦も戻ってきて墓参している。今年は報告者も現場で遭遇した。

 (B 教会墓地:信徒の父、六二歳、二代、主婦、専門学校)
 亡父と自分が日本基督教団、母と妹一人がホーリネス派、妹二人がルーテル派の聖書研究会に通う、いわゆるクリスチャン・ホームに育つ。山形県T市から二○年前に福島へ父の退職を機に移転してきた。元在籍していた教会でも教会墓地が三五年前に建設され、当初に分譲の契約をしたものの、結局それはそのままにしている。九一年七月に逝去した亡父が生前、信夫教会の墓地を見て「俺はここでいいなあ」と感想を言っていため、信夫教会の納骨堂へ十月に収蔵した。それ以前に、戦時中幼くして亡くなった妹三人の遺骨も二○年前に納骨した。朝鮮半島から引き上げてきてから通いだした教会には墓地がなかったので、ずっと家の箪笥の上に保管してあったものである。
 年三、四回、亡くなった日や子供や孫が集まったときに墓参している。九六年八月に自宅で記念会を持つ。
 ホーリネス派の妹を数年前に埼玉で亡くし、キリスト教式葬儀をしたものの、非信徒の義弟が仏式で寺院墓地へ埋蔵した。熱心だった友人が、その長男の拒否にあって結局仏式の葬儀だったこともあり、死を迎えて自分がどのようにされたいのかを予め親族その他に知らせておく必要があると痛感しており、九六年八月に開催された葬儀と墓地に関する夏期研修会でもそれを強調していた。
 しかし、自分に関しては夫も信徒であるためある程度安心しており、夫婦で死に際してどうするかは話し合ってはいない。だが、教会墓地に入りたいと思っている。教会墓地は財力のない人たちのための存在という意識が信徒たちの間にあると指摘している。

 (C 市営霊園:信徒の妻、六九歳、男、初代、小学校、退職)
 十年間に三人の死者を出した。Cは八五年四月に蜘蛛膜下失血で妻を失う。続いて再婚した妻を九五年十月に肺ガンで失う。岡部市営墓地へ埋蔵。九六年には次男も失う。

(9)このノートは墓参者全てが書くとは限らないし、信徒以外の記述も少なからずみられる。そこで、本発表では資料としてどのように取り扱ったかをここで述べておく。
 ノートの内容は、ちょうど報告者がこの教会と関わりを持ち始めた時期にあたる94年11月5日から96年7月6日まで記入された三冊目を例に詳しくみておこう。
 まず記入者(家族)は、被納骨者の遺族・関係者がほとんどである。春秋の彼岸前後と八月の盆時期が多い。雪の降り積もる2月はほとんどない。またそれぞれの命日にも記述がある。
 月別に件数(同じグループで墓参と見なすものを1とする)みる。
 開始の91年。8月は10(うち14-15が5)、9月は7(うち21-23日は5)、10月は0、11月は2、12月は4。また、96年1月は5、2月は2、3月は12(うち17-24日は9)、4月は3、5月は4、6月は4であった。
 92年。1月は4、2月は3、3月は6(うち20日が3)、4月は4、5月は2、6月は3、7月は4、8月は15(うち15-16日は9)、9月は8(うち20-23日は7)、10月は5、11月は3、12月は2。合計59件
 93年。1月は1、2月は0、3月は7(うち20日が2)、4月は3、5月は4、6月は2、7月は3、8月は17(うち11-14日は7)、9月は18(うち19-26日は16)、10月は11、11月は4、12月は5。合計75件。
 94年。1月は8、2月は3、3月は15(うち18-21日が9)、4月は3、5月は4、6月は3、7月は19(1-3の命日前後が15)、8月は13(うち13-16日は8)、9月は13(うち20-25日は9)、10月は5、11月は2、12月は4。合計92件。
 95年。1月は1、2月は3、3月は18(うち18-24日が13)、4月は2、5月は2、6月は2、7月は12(1-3日が11)、8月は16(うち11-16日が14)、9月は7(うち20-23日は3)、10月は8、11月は6、12月は0。合計77件。
 92年から95年までの4年間の月別件数は以下の通り。
 1月は14、2月は9、3月は46、4月は12、5月は12、6月は10、7月は38、8月は61、9月は46、10月は29、11月は15、12月は11。合計303件。盆彼岸が突出していることが理解されよう。
 このような特徴のあるこのノートは、以下で考察する対象者の面接の補充として、特に教会墓地へ収蔵している信徒の中でいちばん記入の多かったAに注目した。
(10)記帳ノートを最も多く書いたのは、九三年七月に交通事故死した専門学校生女子の高校時代の同級生たちである。彼女は教会員の孫であり、教会の幼稚園には通っていたが、非信徒だった。夫は非信徒だが、長男は信徒である。長女の娘が年六回ほど墓参している。同年七月二十五日の納骨式以降、彼女の同級生たちが多く来ていることが、記帳ノートから判明する。特に、死後一、二年の命日には多数の記載があり、それ以外にも彼女関係者の記載が目立つ。また、小林によれば、外部からこの記帳ノートを読み先祖のことを思い出して泣いたという話を聞いたとのことである。

3.小括
 現代の信徒たちはキリスト教が「家の宗教」となることについて、必ずしも積極的に賛成していない。現代では、キリスト教が「家の宗教」とならなくても、キリスト教信徒は信徒として信仰を守り続けることが十分に可能なのである。
 その結果、各家庭で一つの墓石を管理するようなタイプの教会墓地は、「家の宗教」化を促すものと見なされ、建設されたとしても直ちに信徒に受容されるに至っていない。もちろんこの背景には、キリスト教はそもそも個人主義的宗教だということは論を待たない。さらに、日本のプロテスタントキリスト教会では、クリスチャンホーム化にも向かっていないことも示している。そして、一つの納骨堂に納められるタイプの墓地は、各家庭に墓地がない場合に利用される。
 現在のところ、以下のような知見が得られた。
 (一)信徒は墓地に対して、キリスト教会の全体的な問題と意識した場合は、キリスト教信仰の証という観点から教会が保持することに賛成するが、実際に個別の問題と意識した場合は、それぞれの家族で保持・継承すべき施設という規範が優先する。そこで、教会が墓地を保持することの意義は認めるものの、実際には自ら墓地を用意できない者のため存在すると認識される。
 (二)キリスト教信仰は必ずしも継承されないし、それは個人的信仰を重視する教派では強制されるものでもない。従って、各家族で墓地を新たに保持する場合は、無宗教・無宗派を標榜する霊園の区画を保持することが望ましいと考えている場合もある。
 (三)教会墓地の形態も重要である。共同埋蔵式では、遺灰が個別化されず心理的違和感が生じて利用されないこともある。納骨堂は一時的な保管という利用と認識されている。

 筆者は先に墓地を「信徒としてのアイデンティティ確立のため」と位置づけたが、これまでの調査の結果、キリスト教信徒たちは墓地についてそれとは異なった意識を持っていることが明らかになってきた。墓地に関して、一般的に教会が独自の墓地を持つことには賛成だが、自らがそれを利用するかというと必ずしもそうではない。そして、「自らの信仰とは関係がない」という答えが少なからず見受けられた。つまり、墓地はそれぞれの家族の宗教的施設という認識が強く、クリスチャンホーム化していない家庭では、墓地を宗教的な施設だからといってキリスト教墓地を志向するのではなく、むしろ、無宗教的な霊園の区画を保持することが望ましいとされている場合もある。それは何故だろうか。
 そこで想起されるのが、日本では、キリスト教は信仰ではなく思想として受容されているという古屋安雄の指摘である(24)。日本へ渡来してきたプロテスタント各教派では、宣教師たちも初代の信徒たちも、「個人の回心」の部分に対して関心が強かった。そのような中で、キリスト教へ回心した信徒たちは、キリスト教を自らの個人的な信仰としてしか受け止めなかったのではないか。「個人の回心」重視の姿勢は現況が示しているように現代まで続いている。
 現代の信徒たちはキリスト教が「家の宗教」となることについて積極的に賛成していない。現代では、キリスト教が「家の宗教」とならなくても、キリスト教信徒は信徒として信仰を守り続けることが十分に可能なのである。そして、その結果、「家の宗教」化を促すような教会墓地はすぐに信徒に受容されるに至っていない。もちろんこの背景には、キリスト教はそもそも個人主義的宗教だということは論を待たない。さらに、日本のプロテスタントキリスト教会では、クリスチャンホーム化にも向かっていないことも示している。
 筆者のこのような見解は、本稿では墓地に注目しただけなので、今後は他の角度からの調査で確認していかねばならない。同時に、現代の信徒にとっては、「先祖祭祀」よりも「死者祭祀」に対するキリスト教的意味づけの提示が問題となっていることが理解されよう。幾つかの文献により、現代の教会指導者たちが現場でどのように信徒へ、死者儀礼に関するキリスト教信徒としての対応を指導しているかが示されている(25)。だが、全体的に見てもそれは多数派とは言えない。ただし、教会墓地というハード面の準備が整いつつある今後は、キリスト教信仰に基づく死者儀礼のあり方を、キリスト教信徒がいかに実践するかというソフトの問題になってきたとも言えるのではないか。
 以上の考察をもとに、筆者は以下のような仮説を提示して、本稿を閉じることにする。

4.今後の課題
 上記の課題に対し、今度は地域を換えた調査を試みたい。


※これは、成城大学民俗学研究所研究例会(1997.12.4)での発表原稿です。 (400字×85枚)


業績一覧へ
書評他・タイトル一覧へ

この発表のレジュメへ